F868:後藤基清 | 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 後藤則明 ― 後藤基清 ― 後藤基任 | F871:後藤基任 | ● |
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後藤基次(又兵衛) | 後藤一意 |
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父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門の次男として生まれた。天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒否したため一族追放となり、仙石秀久に仕えることとなる。 |
基則と同一人物とする説もあるが、一意(佐太郎)は淡輪にある浄土宗西教寺に墓碑があり、承応3年(1654年)が没年となっていることや、後藤家の家譜においても「(佐太郎は)徳川家の嫌疑が晴れて後藤姓へ戻る事ができた」とあり、大坂の陣後も生き延びていることが確認でき、その子らも微禄ながら徳川家の青山宗俊に仕えていることなどから別人であり、佐太郎は基則の下の兄弟である可能性が高い。 |
後藤基則 | 後藤基芳 |
父と共に、慶長の役や関ヶ原の戦いに従軍・活躍したという。慶長11年(1606年)父が黒田長政のもとから出奔した理由のひとつとして、事の詳細は諸説あるが、基則が何らかの不始末を起こし、それについて基次が再三の赦免を願い出たが、長政が頑なに拒否したのが原因とする説もある。出奔後、慶長16年(1611年)に堺にて黒田家の捕縛隊に捕らえられるが、堺奉行であった米津正勝の手により奪還され毛利家の預かりとなった。大坂夏の陣後の元和2年(1616年)、父の罪に連座する形で切腹を命じられた。 |
父の基次が大坂夏の陣で戦死した後、兄の基則は父に連座する形で切腹させられたが、彼は徳川家に異心がないことを示すために玄哲と名乗り、京都で医師の道を目指した。 |