<藤原氏>北家 利仁流

F868:後藤基清  藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 後藤則明 ― 後藤基清 ― 後藤基任 F871:後藤基任

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後藤基次(又兵衛) 後藤一意

 父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門の次男として生まれた。天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒否したため一族追放となり、仙石秀久に仕えることとなる。
 当時の記録に基次の具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からである。戸次川の戦いにおいて仙石秀久が島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高の重臣である栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕えている。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦いでは、吉田長利と共に途中で黒田長政に退却を勧めるが聞き入れられずに敗北を喫し、天正15年(1587年)12月の長岩城攻めの際には瀕死の重傷を負った。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵にも従軍し、第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し、加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後は黒田家重臣の一人として筑前六端城の一つ、大隈城(益富城)の城主となり、16,000石の所領を与えられた。
 如水(孝高の法号)の死から2年後の慶長11年(1606年)、基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔する。当初は豊前国の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた両家(黒田家・細川家)が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁により細川家を退去する。基次の智勇を惜しんで福島正則,前田利長,結城秀康などから召し出しがかかるが、長政により「奉公構」という措置がなされていたため実現しなかった。一旦故郷である播磨国に戻り、領主となっていた池田輝政を介して岡山の池田忠継に仕えた。しかし、「奉公構」の影響で慶長16年(1611年)より京都で浪人生活を送ることになる。
 慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信,北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らを補佐した。冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。
 翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。しかし、後続の薄田兼相,明石全登,真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣・片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年56。 

 基則と同一人物とする説もあるが、一意(佐太郎)は淡輪にある浄土宗西教寺に墓碑があり、承応3年(1654年)が没年となっていることや、後藤家の家譜においても「(佐太郎は)徳川家の嫌疑が晴れて後藤姓へ戻る事ができた」とあり、大坂の陣後も生き延びていることが確認でき、その子らも微禄ながら徳川家の青山宗俊に仕えていることなどから別人であり、佐太郎は基則の下の兄弟である可能性が高い。 
後藤基則 後藤基芳

 父と共に、慶長の役や関ヶ原の戦いに従軍・活躍したという。慶長11年(1606年)父が黒田長政のもとから出奔した理由のひとつとして、事の詳細は諸説あるが、基則が何らかの不始末を起こし、それについて基次が再三の赦免を願い出たが、長政が頑なに拒否したのが原因とする説もある。出奔後、慶長16年(1611年)に堺にて黒田家の捕縛隊に捕らえられるが、堺奉行であった米津正勝の手により奪還され毛利家の預かりとなった。大坂夏の陣後の元和2年(1616年)、父の罪に連座する形で切腹を命じられた。
 黒田家からの出奔後、摂津国に隠棲していたようで、この時期に大坂の中心部で乱暴狼藉を働いている武士に奉行所の役人が手も足も出ずにいたところ、この武士をたちまちのうちに2名斬り捨てて名も告げずに去った。奉行所の者が後を追って素性を聞いたが答えず、この話を聞いた片桐且元が自身でその家を訪ねたところ、後藤基次の子であると認めたため、且元の庇護を受けて堺に邸宅を与えられた。且元は再三にわたり黒田家に赦免を願い出たが許されなかったという。 

 父の基次が大坂夏の陣で戦死した後、兄の基則は父に連座する形で切腹させられたが、彼は徳川家に異心がないことを示すために玄哲と名乗り、京都で医師の道を目指した。
 加藤嘉明の庇護下にあったようで、伊予の川之江に広大な屋敷を構えた。江戸幕府成立後、町人は金に飽かせて広大な屋敷を作れなくなり身分に応じた敷地で家を建てたが、武士階級の屋敷割りで7000石取り以上の面積の屋敷を有していたとされ、領主である加藤家から何らかの援助を受けていたと推測される。のち、近衛信尋の侍医として15年にわたって仕えた。
 1662年2月16日(寛文元年12月28日)、川之江にて死去。