F868:後藤基清 | 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 後藤則明 ― 後藤基清 ― 後藤基秋 | F870:後藤基秋 | ● |
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後藤勝政 | 後藤勝基 |
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明応7年(1498年)、後藤康秀は美作中央部に勢力を誇る美作立石氏を攻めるも美和山城主・立石景泰(美作立石氏27代当主)に撃退され討死した。 |
後藤家は南北朝時代から戦国時代にかけての200年間、三星城を居城とした。勝基もその代々守ってきた三星城を父・後藤勝国から譲り受けた。勝基が当主となってのち、出雲尼子氏の力が衰えはじめたので、永禄3年(1560年)頃にその配下から離反し、備前国の浦上宗景と組んで江見久盛の居城である倉敷城を攻め、永禄5年(1562年)には浦上勢を先導して美作国中央部へと侵攻するが失敗に終わった。永禄6年(1563年)には今度は三村家親に三星城を攻められるが、浦上氏の援軍もありこれを退け、以降は東美作統一に奔走、順調に勢力を拡大していき、安東,江見,小坂田などの土豪を配下として、ついに東美作の大部分を掌握した。 |
後藤福基 | 後藤助右衛門 |
後藤象二郎の10代前の先祖にあたる。慶長6年(1601年)、土佐藩主山内一豊が土佐から上洛する途中の大坂で、嫡子・後藤助右衛門と共に召抱えられた。福基は禄500石を与えられて御使母衣に列した。某年月日死去。助右衛門が一家として取り立てられていたため、福基の後は次男の之基が継いだ。 | 父と同じく慶長6年(1601年)、大坂で山内一豊に召抱えられ、一豊の土佐帰藩に御供し、御馬廻役を仰せ付けられ知行200石を下し置かれた。某年月日死去。家督は養子の左近右衛門正勝が継いだ。この系の子孫が後藤象二郎である。 |
後藤正晴 | 後藤元曄(象二郎) |
文政12年(1829年)12月25日、土佐藩士・橋本宅右衛門孝直の弟の正晴は、母方の伯父・後藤正澄が病床であったため、正澄の養子となることを仰せ付けられる。文政13年(1830年)閏3月21日、養父・正澄の跡目本知高200石の内150石を下し置かれ、格式御馬廻りを仰せ付けられた。天保5年(1834年)11月6日、当分、御火消方御用を以て、来3月末まで御家中町方の火用心廻り番を仰せ付けられる。天保7年(1836年)2月9日、御扈従を仰せ付けられる。天保12年(1841年)5月4日、右勤番を差逃し、御馬廻りを仰せ付けられた。天保15年(1844年)12月10日、柄弦御差物役を仰せ付けられ、役料100石を下し置かれた。弘化4年(1847年)9月1日、江戸において上御屋敷御用、大向き御用を仰せ付けられ、ただしそれまでの柄弦御差物役は料知高ともに差し戻された。嘉永元年(1848年)7月25日、江戸にて病死。 |
少年期に父を失い義理の叔父・吉田東洋に預けられて育ち、東洋が開いた少林塾に学ぶ。また柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学び文武の業を修めた。 |
後藤猛太郎 | |
日本で初めて南洋群島を探検した人物。日本活動フィルム会社(日活の前身)の初代社長。貴族院議員。伯爵。「天下のならず者」と自称していた。 |