F781:藤原長家 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道長 ― 藤原長家 ― 加藤正家 | F798:加藤正家 | ● |
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加藤正家 | 加藤清忠 |
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清正系加藤氏の祖。藤原忠家の7男。正家が加賀国に行ったため、朝廷から加藤という苗字が与えられ、これが現在の加藤の苗字のルーツとなった。 | 美濃国の斎藤道三に仕えていたが、戦中に負傷したことをきっかけに斎藤家から離れたと伝わる。後に尾張国海部郡津島の鍛冶屋清兵衛の娘・伊都(大政所の従妹)を娶り、刀鍛冶となった。清正が幼い頃、38歳で逝去したと伝わる。 |
加藤清正 | 加藤忠正 |
永禄5年(1562年)6月24日、尾張国愛知郡中村に生まれた。天正元年(1573年)、羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、長浜城主となった又従兄弟の秀吉に小姓として仕えた。天正8年(1580年)9月19日、秀吉から播磨国神東郡内に120石を与える知行宛行状が記録上の最初の登場である。
詳細は、Wikipedia(加藤清正)を参照
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豊臣時代の清正の正室・山崎氏(山崎片家女)に嫡男・虎熊がいたが、文禄の役中に没し、関ヶ原の戦いを経て慶長8年(1603年)に徳川家康によって江戸幕府が開かれ同10年(1605年)に加藤家江戸屋敷が設けられると、忠正は将軍家への人質として江戸に置かれた。 |
加藤忠広 | 加藤光広 |
慶長6年(1601年)、加藤清正の3男として生まれる。兄の虎熊,熊之助(忠正)が早世したため世子となる。慶長16年(1611年)、父の清正が死去したため跡を継いだ。11歳の若年であったため、重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたとされている。家臣団を完全に掌握することができず、牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱したといわれている。また、細川忠興は周辺大名の情報収集に努めていたが、忠広の行状を「狂気」と断じて警戒していた。 |
徳川家康の曾孫にあたる(依姫の母が家康の3女・振姫である)。1618年生まれ説もある。
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藤枝正良 | 亀姫 |
次男の正良は藤枝姓を名乗り、母である忠広の側室・法乗院と真田氏へ預けられていたが、父の後を追って自刃した。これにより加藤氏の後継者がなくなり、領地は収公された。 |
献珠院は忠広の死から6年後に許され、叔母の瑤林院(忠広の姉で徳川頼宣正室)のはからいで旗本・阿倍正之の5男・正重に嫁したが、約3年後、正重が家督を相続直後に32歳で死去した。 |
加藤可重 | 片岡正方 |
熊本藩主・加藤清正の重臣。近江出身。本姓は片岡。通称は初め清左衛門、のち右馬丞。父は片岡庄右衛門国秀。この近江片岡氏のルーツは、三河足助氏の一族で暦応年間(1338~41年)に足助範秀が足利将軍より近江国粟太郡片岡村の地を拝領したことを機に、姓を片岡と改めたという。この範秀の8代孫が可重の父・国秀とされるが、詳細は不明である。 |
天正8年(1580年)、加藤可重の子として誕生。兄が討死したため、家督は従兄・加藤重泰が継ぎ、正方はその養子となり家督を相続した。 |