<藤原氏>北家 御堂流

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加藤正家 加藤清忠
 清正系加藤氏の祖。藤原忠家の7男。正家が加賀国に行ったため、朝廷から加藤という苗字が与えられ、これが現在の加藤の苗字のルーツとなった。  美濃国の斎藤道三に仕えていたが、戦中に負傷したことをきっかけに斎藤家から離れたと伝わる。後に尾張国海部郡津島の鍛冶屋清兵衛の娘・伊都(大政所の従妹)を娶り、刀鍛冶となった。清正が幼い頃、38歳で逝去したと伝わる。 
加藤清正 加藤忠正

 永禄5年(1562年)6月24日、尾張国愛知郡中村に生まれた。天正元年(1573年)、羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、長浜城主となった又従兄弟の秀吉に小姓として仕えた。天正8年(1580年)9月19日、秀吉から播磨国神東郡内に120石を与える知行宛行状が記録上の最初の登場である。
 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、「賤ヶ岳の七本槍」の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。文禄の役の際の京城攻めでは、出世を競う小西行長と一番乗りを争った。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。熊本での新田開発や治水工事での実績は高く評価されている。
 慶長16年(1611年)、京から熊本への帰国途中の船内で発病し、6月24日に死去。50歳。死因には諸説あるが、脳溢血によるものと考える説が有力である。
 新たに肥後熊本の領主となった細川忠利は、清正の霊位を先頭にかざして肥後に入部し、熊本城に入る際「あなたの城地をお預かりします」と言って浄池廟の方角に向かって遥拝し、清正を敬う態度を示したという。

 

詳細は、Wikipedia(加藤清正)を参照

 

 豊臣時代の清正の正室・山崎氏(山崎片家女)に嫡男・虎熊がいたが、文禄の役中に没し、関ヶ原の戦いを経て慶長8年(1603年)に徳川家康によって江戸幕府が開かれ同10年(1605年)に加藤家江戸屋敷が設けられると、忠正は将軍家への人質として江戸に置かれた。
 慶長11年(1606年)、豊臣姓を下賜され主計頭に叙任。一方、徳川秀忠より偏諱の授与を受けて忠正と名乗りを改めている。
 慶長12年(1607年)正月に疱瘡を患い、将軍・秀忠より名医を遣わされるが、その甲斐なく江戸屋敷で死去。享年9。墓所は熊本県八代市の宗覚寺。忠正の死去により、弟(清正3男)の虎藤(忠広)が後継となり熊本藩2代藩主となるが、後に改易された。 

加藤忠広 加藤光広

 慶長6年(1601年)、加藤清正の3男として生まれる。兄の虎熊,熊之助(忠正)が早世したため世子となる。慶長16年(1611年)、父の清正が死去したため跡を継いだ。11歳の若年であったため、重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたとされている。家臣団を完全に掌握することができず、牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱したといわれている。また、細川忠興は周辺大名の情報収集に努めていたが、忠広の行状を「狂気」と断じて警戒していた。
 寛永9年(1632年)5月22日、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使・稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなった。
 その後、出羽丸岡に1代限り1万石の所領を与えられ、母・正應院や側室,乳母,女官,20名の家臣とともに50人の一行で江戸を発ち、肥後に残していた祖母(正應院母)も呼び寄せて丸岡で22年間を過ごした。丸岡は堪忍料であり、年貢の取立てなどは庄内藩の代官が行ったので、配所に赴いた家臣20名はもっぱら忠広の身辺に仕えた。忠広は、文学や音曲に親しみ、書をしたり、和歌を詠んだり、金峯山参拝や水浴びなどをしたり、かなり自由な生活の様子が諸史料に見える。配流の道中に始めた歌日記1年余の319首を『塵躰和歌集』に編んでいる。
 20年を過ごした慶安4年(1651年)6月に母が没し、2年後の承応2年(1653年)に死去した。享年53。遺骸は忠広の遺言が聞き届けられ、屋敷に土葬してあった母・正應院の遺骸と一緒に本住寺(現・山形県鶴岡市)に葬られ、墓も並んで造られた。家臣の加藤主水は剃髪をし僧侶となり、忠広の墓守になった(のちに乱心したとも)。家臣のうち希望した6人が庄内藩に召抱えられ、その子孫は幕末まで庄内藩に仕えた。
 嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだことが、改易の理由であるとされるが、他にも改易の理由には諸説ある。忠広が家臣団を統率できなかったためとも、法度違反のためとも、駿河大納言事件に連座したためともいわれている。春日局の兄・斎藤利宗は父の清正により5,000石で召し抱えられ、忠広にも仕えていたが、徳川忠長と親交が深まると暇を請い熊本より退去し、旗本として幕府に同石高で召し抱えられている。
 また、加藤氏が豊臣氏恩顧の有力大名、しかも豊臣氏と血縁関係にあったために幕府に警戒され、手頃な理由をつけられて取り潰されたという説もある。

 徳川家康の曾孫にあたる(依姫の母が家康の3女・振姫である)。1618年生まれ説もある。
 寛永7年(1630年)、将軍・徳川家光から偏諱(「光」の字)と松平の名字を与えられ、光広と名乗る(諱は、祖父・加藤清正の1字により光正とも)。寛永9年(1632年)、父・忠広は江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて改易の沙汰を受けた。改易の理由のひとつに、光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状を作り家臣をからかうという、過ぎた座興を行ったというものがある。
 光広は飛騨国高山藩主・金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され天性寺に蟄居したが、配所にて過ごすこと1年後の寛永10年(1633年)、父に先立ち病死した。武人肌であり、改易の遠因は自分にあったとして堪えられなくなり自刃したとする説、毒殺説もある。墓所は高山市天性寺町の法華寺。法華寺は、金森重頼が光広一周忌の時、その霊を慰めるために高山城二の丸の建物を移築して創建し墓所とした寺である。この地域には浄土真宗の寺院が圧倒的に多い中で、めずらしく法華寺は法華宗寺院であるが、それは加藤家宗旨が法華宗のためである。寺には光広の遺品が残り拝観できる。光広の死後、従臣の一部は上野平を開墾して帰農し、現在も子孫が住んでいる。

 

藤枝正良 亀姫
 次男の正良は藤枝姓を名乗り、母である忠広の側室・法乗院と真田氏へ預けられていたが、父の後を追って自刃した。これにより加藤氏の後継者がなくなり、領地は収公された。 

 献珠院は忠広の死から6年後に許され、叔母の瑤林院(忠広の姉で徳川頼宣正室)のはからいで旗本・阿倍正之の5男・正重に嫁したが、約3年後、正重が家督を相続直後に32歳で死去した。
 丸岡において2子(熊太郎光秋,女子某)を儲けたといわれているが、公にはできなかった。女子某の子孫は5000石相当の大庄屋・加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、明治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴している。しかし、この家系を最後に継いだ加藤セチ(1893~1989年、日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号として知られる)の死去により、その本家筋は断絶した。筆頭分家の加藤与忽左衛門家を始めとするその他の子孫は、山形県を中心に全国各地に散らばっている。

加藤可重 片岡正方

 熊本藩主・加藤清正の重臣。近江出身。本姓は片岡。通称は初め清左衛門、のち右馬丞。父は片岡庄右衛門国秀。この近江片岡氏のルーツは、三河足助氏の一族で暦応年間(1338~41年)に足助範秀が足利将軍より近江国粟太郡片岡村の地を拝領したことを機に、姓を片岡と改めたという。この範秀の8代孫が可重の父・国秀とされるが、詳細は不明である。
 天正16年(1588年)、肥後半国19万石の大名となった加藤清正に付随して肥後に赴き、翌天正17年(1589年)には阿蘇郡1万石を与えられ、阿蘇内牧城を再整備し知行支配を行った。
 慶長9年(1604年)8月28日没。阿蘇市内牧浄信寺と八代市本町の浄信寺が菩提寺となっており、内牧では今も「右馬丞さん」として親しまれている。墓所は阿蘇市小里湯山。大きな杉が菩提樹として残っており、その入り口階段右手には福の神・大黒天が祀ってある。

 天正8年(1580年)、加藤可重の子として誕生。兄が討死したため、家督は従兄・加藤重泰が継ぎ、正方はその養子となり家督を相続した。
 慶長年間の中頃に、熊本藩の内牧城代として加藤重泰の跡を継ぐ。藩主・加藤清正の死後、慶長17年(1612年)に江戸幕府より麦島城代に任じられる。のちに同僚の加藤正次らと対立、牛方馬方騒動を起こして元和4年(1618年)に勝訴した。
 翌元和5年(1619年)に麦島城一円が大地震で崩壊すると、藩主・忠広の命で新たに松江城の築城を開始。萩原提や前川提といった堤防を築くことで、球磨川が流れる松江城下と周辺の村に治水工事を施す。元和8年(1622年)に松江城の竣工により城代家老の職についた。
 寛永9年(1632年)、主家の加藤家の改易にともなって京都の本圀寺に隠棲すると片岡風庵を名乗った。かつての家臣である西山宗因と連歌を嗜んで両吟千句などを著作する。のちに大坂で相場を張って巨利を博し、世間からはその出来事を風庵相場と名づけられた。寛永20年(1644年)になって広島藩浅野家の預かりの身となり、慶安元年(1648年)に広島で死去。享年69。墓所は広島市の妙風寺。