<藤原氏>北家 御堂流 ― 御子左流

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三井高安 三井高俊
 三井家は、高安の代で、武家から町家に転向し、質屋や酒・味噌の販売を行っていた。越後屋(のちの三越)の屋号はここから由来するといわれている。 

 天正年間に伊勢国で生まれる。
 殊法は、夫・高俊が、かねてより父・高安から武士の訓育を受け、町人の気質に疎いことを気にかけ、家業の今後を深く案じ、自ら商売の道をつくって子どもにその作法を教え、実践したとされる。殊法が夫に変わり、家業の商売一切を取り仕切ることで、家業の立直しが図られた。殊法は子どもたちに江戸や京都,大阪に呉服や両替の商売を興させ、これがのちの三井家の祖となる。
 松阪に質屋を主業とする店をひらいた。「越後殿の酒屋」とよばれたという。のちの「越後屋」の起こりとなる。店ではほかに酒や味噌の類を商った。

三井高利 三井高美

 三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖といわれる。高利は伊勢国松坂で高俊の4男として生まれた。江戸で釘抜三井家を創業した長兄の三井高次(三郎左衛門)に丁稚奉公し、番頭となる。のちその商才を恐れた兄達に、郷里で母親の面倒を見てほしいという表向きの理由をつけて、事実上放逐され、松坂で金融業を営む。
 1673年、長兄・高次の死後、江戸本町一丁目に呉服店を開業し、屋号を越後屋(のちの三越)とする。現金掛値無し(定価販売)、反物の切り売りなどの新商法を導入して繁盛する。当時、代金は後日の掛け(ツケ)払い、売買単位は1反単位が当たり前であった呉服業界においては斬新であり、顧客に現金支払いを要求する一方で良質な商品を必要な分だけ安価で販売した。ツケの踏み倒しの危険性がないためにそのリスク分を価格に上乗せする必要性がなかったために、顧客にとっても便利な仕組みであったのである。高利は後に京都に移り住んで仲買の仕事を専門に扱い、江戸の店を長男・高平らに任せるようになった。
 だが、この繁栄ぶりに嫉妬した同業者からは迫害され、組合からの追放や引き抜き、不買運動などにあう。だが、側用人の牧野成貞の推薦によって幕府御用達の商人となってからはこうした動きも影を潜めた。後に両替商も開業する。1694年に73歳で死去。墓所は真正極楽寺(真如堂)にある三井一族の墓地にある。
 高利は長男の高平はじめ息子達や娘夫婦等に数家を創設させており、遺産はそこで共有するものとした。これが江戸期の豪商、後に財閥当主となる三井家である。 

 三井家4代目当主。幼名は万蔵。1733年に勘右衞門を名乗り、翌年、父の剃髪とともに、北家を継承、1736年には新八と改名、1738年には京都為替店名前である三郎助を継承、1741年に新町家の高方の死亡を受けて八郞右衞門を継承する。ところが、美術品などの蒐集や西教寺への多額の寄進などによって大元方から多額の借財を抱え、当時健在であった高房の意向で1747年に八郞右衞門の名を実弟である新町家の新弥へ譲らされる。1750年、次男の高清に北家を譲って出家するが、その後も浪費は収まらず、1756年(宝暦6年)8月には一族からの銀1200貫目を手切金として一族からの離脱を表明する。だが、それでも、秘かに大元方からの借財を重ねていたことが発覚、同年閏11月13日後を継いだ高清(当時は新八)よりの申し入れで一族からの義絶・追放が決定され、同月27日には一族・手代83名の同意を得て義絶を決定する申渡印形帳が出されることになった。 
三井高福 三井高棟
 幕末維新の際には、幕府と朝廷の間を巧みに動きまわり、三井財閥の基礎を固めた。1859年(安政6年)外国奉行所御金御用達を務め、明治になって政府の銀行行政の実際面で活躍。第一国立銀行・三井銀行を創立。三井物産も設立した。三井財閥の基礎を築いた。   三井家10代当主。趣味人として知られ、1906年には、麻布区今井町に大邸宅の「今井町邸」を建設。約1万3,500坪の敷地内には能舞台や庭園、テニスコートなどが設けられたほか、後に国宝となる茶室「如庵」が移築された。1922年には宮内庁からの依頼で英国皇太子を迎え、晩餐会や能観賞などで皇太子一行を接待した。1933年に高棟の隠居に伴い今井町邸は嗣子である第11代当主の高公へと受け継がれたが、1945年、戦災で焼失した。
三井浅子

 小石川三井家6代当主・三井高益の4女(妾の子で後に養女となった)として生まれる。幼い頃より、四書五経の素読など学問に強い興味を持つが、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられる。
 17歳で鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった第8代・加島屋久右衛門正饒の次男・広岡信五郎と結婚。嫁いだ後も、主人は手代に任せて業務に関与しない商家の風習に疑問と限界を感じ、簿記や算術などを独学するようになる。
 20歳で明治維新の動乱を迎え、家運の傾いた加島屋を救うために実業界に身を投じ、夭逝した正饒の長男に代わり加島屋当主となった第9代・広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)、夫の広岡信五郎と共に、加島屋の立て直しに奔走する。
 1884年(明治17年)頃から炭鉱事業に参画し、筑豊の潤野炭鉱を買収して、開発に着手。その際、単身炭鉱に乗り込み、護身用のピストルを懐に坑夫らと起き伏しを共にしたと伝えられている。このように男もためらうような冒険的事業に敢えて乗り出したので、狂気扱いされたこともたびたびであったという。
 1888年(明治21年)に加島銀行を設立。続いて1902年(明治35年)に大同生命創業に参画するなど、加島屋は近代的な金融企業として、大阪の有力な財閥となる。これらの活躍により、広岡浅子は鈴木米(鈴木商店),峰島喜代子(尾張屋銀行)らとともに、明治の代表的な女性実業家としてその名を馳せる。
 1896年(明治29年)、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、成瀬の著書である『女子教育論』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験を持つ浅子は、『女子教育論』で成瀬の説く女子高等教育機関設立の考えに大いに共鳴し、金銭の寄付のみならず、成瀬と行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者となる。また広岡家はもとより、実家の三井家一門にも働きかけ、三井家から目白台の土地を寄付させるに至り、1901年(明治34年)の日本女子大学校設立に導く。
 1904年(明治37年)に夫の信五郎が死去したのを機に、事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に譲り、以後は社会貢献事業に専念する。同年日露戦争が始まり、愛国婦人会に参加し、中心的人物として活動する。乳がんのため、60歳のときに受けた胸部の腫瘍手術から無事生還できたことをきっかけに、回復後の1911年(明治44年)に宮川経輝より受洗。婦人運動や廃娼運動にも参加し、当時発行が相次いでいた女性雑誌に多数の論説を寄せ、同性の啓発に努める。「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、宮川による『心霊の覚醒』や自らの宗教的信条を記した『一週一信』を出版して日本のキリスト教化に励んだ。日本YWCA中央委員,大阪YWCA創立準備委員長を務めた。
 日本女子大学設立後も浅子の女子教育に対する情熱は衰えることがなく、1914年(大正3年)から死の前年までの毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰。参加者には若き日の市川房枝や村岡花子らがいた。
 1919年(大正8年)、腎臓炎のため東京麻布材木町の別邸にて死去。「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかったと言われる。生前から「(子孫には)不動産で資産を残してやりたい」と各地に別邸・別荘を積極的に建築していた。葬儀は東京と大阪で2度行なわれ、浅子の功績を称え、日本女子大学校では同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催した。