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| 三井高安 | 三井高俊 |
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| 三井家は、高安の代で、武家から町家に転向し、質屋や酒・味噌の販売を行っていた。越後屋(のちの三越)の屋号はここから由来するといわれている。 |
天正年間に伊勢国で生まれる。 |
| 三井高利 | 三井高美 |
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三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖といわれる。高利は伊勢国松坂で高俊の4男として生まれた。江戸で釘抜三井家を創業した長兄の三井高次(三郎左衛門)に丁稚奉公し、番頭となる。のちその商才を恐れた兄達に、郷里で母親の面倒を見てほしいという表向きの理由をつけて、事実上放逐され、松坂で金融業を営む。 |
三井家4代目当主。幼名は万蔵。1733年に勘右衞門を名乗り、翌年、父の剃髪とともに、北家を継承、1736年には新八と改名、1738年には京都為替店名前である三郎助を継承、1741年に新町家の高方の死亡を受けて八郞右衞門を継承する。ところが、美術品などの蒐集や西教寺への多額の寄進などによって大元方から多額の借財を抱え、当時健在であった高房の意向で1747年に八郞右衞門の名を実弟である新町家の新弥へ譲らされる。1750年、次男の高清に北家を譲って出家するが、その後も浪費は収まらず、1756年(宝暦6年)8月には一族からの銀1200貫目を手切金として一族からの離脱を表明する。だが、それでも、秘かに大元方からの借財を重ねていたことが発覚、同年閏11月13日後を継いだ高清(当時は新八)よりの申し入れで一族からの義絶・追放が決定され、同月27日には一族・手代83名の同意を得て義絶を決定する申渡印形帳が出されることになった。 |
| 三井高福 | 三井高棟 |
| 幕末維新の際には、幕府と朝廷の間を巧みに動きまわり、三井財閥の基礎を固めた。1859年(安政6年)外国奉行所御金御用達を務め、明治になって政府の銀行行政の実際面で活躍。第一国立銀行・三井銀行を創立。三井物産も設立した。三井財閥の基礎を築いた。 | 三井家10代当主。趣味人として知られ、1906年には、麻布区今井町に大邸宅の「今井町邸」を建設。約1万3,500坪の敷地内には能舞台や庭園、テニスコートなどが設けられたほか、後に国宝となる茶室「如庵」が移築された。1922年には宮内庁からの依頼で英国皇太子を迎え、晩餐会や能観賞などで皇太子一行を接待した。1933年に高棟の隠居に伴い今井町邸は嗣子である第11代当主の高公へと受け継がれたが、1945年、戦災で焼失した。 |
| 三井浅子 | |
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小石川三井家6代当主・三井高益の4女(妾の子で後に養女となった)として生まれる。幼い頃より、四書五経の素読など学問に強い興味を持つが、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられる。 |