応徳3年(1086年)、侍従に叙爵。嘉承元年(1106年)3月、蔵人頭左中将、同年12月に参議に任じられ、永久2年(1114年)に従三位となり、保安3年(1122年)に権中納言に至る。 堀河朝において歌人として活躍し、源俊頼や藤原基俊といった同時代の歌人と親交があった。長治元年(1104年)には自邸で「左近権中将俊忠朝臣家歌合」を開催し、これらの歌人を招いている。家集として『俊忠集』を残している。『金葉和歌集』(二度本)の3首をはじめとして、以降の勅撰和歌集に29首が入集している。 人となりは清廉であり、参議のまま16年の歳月を経て権中納言になった時にも、私的な懇願などは一切行わなかった。このことについて『古事談』は、懇願の末に権中納言に昇進した源顕雅の例と対比して、「消息を書かざる人の卿相に昇る事は、俊忠卿より始まる」と賛辞を贈っている。
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久安2年(1146年)に叙位、長寛2年(1164年)に従五位上に叙せられ、永万元年(1165年)に下野守に任ぜられる。後白河院近臣として活躍し、仁安2年(1167年)に従四位下・右近衛少将となり、翌年には皇后宮権亮に任ぜられて従四位上から正四位下に進む。承安元年(1171年)には右近衛中将、安元2年(1176年)には蔵人頭に任じられる。治承元年(1177年)、皇太后宮権大夫に任じられると、同3年(1179年)には右兵衛督、更に同年10月には参議を兼帯するが、翌月の治承三年の政変によって解官される。 伝承によれば、治承4年(1180年)7月、当時、福原京にいた光能の許に伊豆国の源頼朝と面会した文覚が訪れ、頼朝のために後白河法皇に取り次いで平清盛追討の院宣を出させるように迫ったとされている。『愚管抄』はこれを妄説として否定するが、『平家物語』などにおいては名場面の1つとして採用されている。 養和元年(1181年)、参議に復して従三位に進み、翌年には左兵衛督,丹波権守を兼ねる。寿永2年(1183年)に正三位に昇るが病に倒れて出家し、程なく薨去した。 神護寺三像として知られる神護寺所蔵の肖像画の一つは光能と伝わるが、近年は室町幕府の2代将軍・足利義詮とする説がある。
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