F719:二条道平 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原道長 ― 藤原忠実 ― 九条兼実 ― 二条良実 ― 二条道平 ― 成瀬基久 | F723:成瀬基久 |
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成瀬基久 | 成瀬正頼 |
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1331(元弘元)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕へと動き出すと、関白・二条良基は京都の戦乱から逃れるため、飯盛城主7代目の足助重範のもとに身を寄せた。二条良基が足助に滞在中、足助重範の娘の滝野が侍女として仕え、良基の子を身籠る。やがて良基が京都へと帰ると、足助に残された滝野は良基の形見の装束を抱き日々慕い続けていたが、良基が亡くなったと聞き、形見の装束を埋めて塚とした(装束塚)。子は元服後に成瀬郷を本貫としたことから成瀬基久と称し、松平氏に仕え犬山城主となる成瀬氏の祖となる。飯盛城跡への登山道の途中に、装束塚と同所に足助重範,滝野および成瀬基久,子の基直の墓がある。 | 守山崩れで松平清康が謀殺された後に、松平広忠の大叔父にあたる松平信定が一時期岡崎城を占拠したが、八国甚六郎,大久保忠俊,林藤助,大原左近右衛門らと共に信定を退去させ、広忠を岡崎へ再入城させた。織田信秀に攻められたとき安祥城を守り討死した。 |
成瀬正義 | 成瀬正一 |
成瀬正頼の長男として生まれ、家督相続後は木戸城主,六名城主となる。徳川家康に仕え、使番・旗奉行を兼任する形で任命されて家康の主要な合戦の多くに参加した。永禄5年(1562年)に同僚を斬り出奔するが、三河一向一揆がはじまると帰参を許され、一揆鎮圧に当たる。永禄11年(1568年)の織田信長の上洛では、織田氏への援軍の将として参戦し、六角氏の箕作城攻めで武功を挙げた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加して武功を挙げた。 |
永禄3年(1560年)頃、徳川氏を出奔して武田氏に仕え、第四次川中島の戦いでは、石黒五郎兵衛と共に諸角虎定の首級を取り返し、武田信玄より黒駒の地を与えられる。その後、徳川氏に復帰。兄である藤蔵正義と共に、徳川家康に従い、姉川の戦い,三方ヶ原の戦いに従軍。三方ヶ原の戦いでは兄の正義が討ち死にした後、徒歩にて家康に従い浜松城までの道案内をした。戦後、兄に代わって成瀬本家の家督を相続している。長篠の戦いでも、日下部定好と共に大久保忠世の与力として、武田方の旗指物の識別や鉄砲隊の指揮を行う。武田家にかつて仕えていた経歴を重宝され情報官としての役割を担いつつ、特殊技能の鉄砲隊の指揮官も行った。このときの様子は成瀬家本の長篠合戦図屏風に描かれている。また、この頃からはじまった日下部との連携は生涯続く。 |
成瀬吉正 | 成瀬正武 |
6歳の頃から徳川家康の侍女に育てられるが、17歳の時に突如徳川家を出奔する。浅野幸長の家臣、次いで小早川秀秋の家臣となり、関ヶ原の合戦に従軍する。 |
2代将軍・徳川秀忠に6歳の頃から小姓として仕え、のちに花畑番(四番紫幌組)番頭に昇進して5000石を拝領。同時期の小姓組番頭に、水野忠元,井上正就,板倉重宗,日下部正冬,大久保教隆がいる。 |
伊東祐正 | 成瀬正順 |
旗本・成瀬正武の嫡男として生まれる。幼い頃に井伊直孝邸で行われた宴席で、直孝から直々に正宗十哲の志津三郎兼氏を贈呈される。父の切腹後は、母の実家である飫肥伊東氏を頼り、成瀬祐正を名乗る。父と親しかった直孝や土井利勝,安藤重信をはじめ、従兄弟の正虎,之成らと文通を続け、帰参を申し出続けるも聞き届けられず、伊東内膳祐正と改名し飫肥城松の丸にて失意のまま生涯を終える。
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林伊右衛門の次男。成瀬弥次衛門の養子となる。支藩の美濃高須藩に出向して同藩の家老となる。安政の大獄で尾張藩主・徳川慶恕が隠居謹慎して高須藩主・松平義比が徳川茂徳と改名し尾張藩主に就任すると、正順も本藩勤務に戻り、用人,寺社奉行等を歴任した後に隠居する。 |
成瀬光太郎 | 成瀬正章 |
成瀬正順の長男辰三郎は文久3年(1863年)に死去、辰三郎の長男・鈴吉も慶應元年(1865年)に早世した。そのため、急遽光太郎は末期養子として成瀬家に婿入りした、この時14歳。慶應4年(1868年)光太郎17歳の時に青松葉事件に連座し家名断絶、大番組・山村多聞の預かりとなり、明治3年(1870年)に赦免されるまで座敷牢にて幽閉された。 |
江戸幕府旗本。父は尾張藩士の成瀬正則の次男で、叔父の成瀬正勝の養子となる。 |