<藤原氏>北家 御堂流

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成瀬基久 成瀬正頼
 1331(元弘元)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕へと動き出すと、関白・二条良基は京都の戦乱から逃れるため、飯盛城主7代目の足助重範のもとに身を寄せた。二条良基が足助に滞在中、足助重範の娘の滝野が侍女として仕え、良基の子を身籠る。やがて良基が京都へと帰ると、足助に残された滝野は良基の形見の装束を抱き日々慕い続けていたが、良基が亡くなったと聞き、形見の装束を埋めて塚とした(装束塚)。子は元服後に成瀬郷を本貫としたことから成瀬基久と称し、松平氏に仕え犬山城主となる成瀬氏の祖となる。飯盛城跡への登山道の途中に、装束塚と同所に足助重範,滝野および成瀬基久,子の基直の墓がある。   守山崩れで松平清康が謀殺された後に、松平広忠の大叔父にあたる松平信定が一時期岡崎城を占拠したが、八国甚六郎,大久保忠俊,林藤助,大原左近右衛門らと共に信定を退去させ、広忠を岡崎へ再入城させた。織田信秀に攻められたとき安祥城を守り討死した。
成瀬正義 成瀬正一

 成瀬正頼の長男として生まれ、家督相続後は木戸城主,六名城主となる。徳川家康に仕え、使番・旗奉行を兼任する形で任命されて家康の主要な合戦の多くに参加した。永禄5年(1562年)に同僚を斬り出奔するが、三河一向一揆がはじまると帰参を許され、一揆鎮圧に当たる。永禄11年(1568年)の織田信長の上洛では、織田氏への援軍の将として参戦し、六角氏の箕作城攻めで武功を挙げた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加して武功を挙げた。
 元亀3年(1572年)12月22日、三方ヶ原の戦いでは旗奉行として家康本陣を守り武田信玄軍と戦い奮戦したが、武田氏の武将・馬場信春隊の突入を防ぐために、後事を弟・成瀬正一に託し、家康の身代わりとして討ち死にした。三方ヶ原の戦いの前夜、物見に出た鳥居忠広が武田勢の多さに篭城を主張したことに対して、腰抜けと言ったために喧嘩となるが仲直りする。この話は講談「湯水の行水」として知られている。正義が戦死した地は、今でも成瀬谷と呼ばれている。墓所は宗源院。
 正義の妻・勒(本多忠勝の姪という)釋尼妙意は4人の正義の遺児を連れて夫が出奔して滞在した地である菊川の西方に訪れ、のち菊川段平尾の本楽寺に末の男子とともに入寺した。本楽寺は高天神の戦いで徳川方の陣場となり武田方に攻められ炎上し、家康の手で相良(現・牧之原市)大沢の地に本尊阿弥陀如来の寄進を受けて本楽院大澤寺が再建されたその子・釋祐傳を婿入りさせ大澤寺を継承させる。寺には現在も正義と釋妙意の位牌が伝わる。 

 永禄3年(1560年)頃、徳川氏を出奔して武田氏に仕え、第四次川中島の戦いでは、石黒五郎兵衛と共に諸角虎定の首級を取り返し、武田信玄より黒駒の地を与えられる。その後、徳川氏に復帰。兄である藤蔵正義と共に、徳川家康に従い、姉川の戦い,三方ヶ原の戦いに従軍。三方ヶ原の戦いでは兄の正義が討ち死にした後、徒歩にて家康に従い浜松城までの道案内をした。戦後、兄に代わって成瀬本家の家督を相続している。長篠の戦いでも、日下部定好と共に大久保忠世の与力として、武田方の旗指物の識別や鉄砲隊の指揮を行う。武田家にかつて仕えていた経歴を重宝され情報官としての役割を担いつつ、特殊技能の鉄砲隊の指揮官も行った。このときの様子は成瀬家本の長篠合戦図屏風に描かれている。また、この頃からはじまった日下部との連携は生涯続く。
 高天神城の戦いでは、天正8年(1580年)に日下部定好と共に小笠山・中村・能ヶ坂・火ヶ峰・獅子ヶ鼻・三井山の六砦間の連携を行い包囲網を強化し、天正9年(1581年)に高天神城を落城させる。
 天正10年(1582年)には駿河侵攻時に行き詰った田中城攻略のため急遽呼び出され、山本帯刀(後に越後長岡藩家老)と共に依田信蕃に降伏勧告を行い、大久保忠世への城引渡しに応じさせた。因みに山本帯刀は山本勘助の弟という説がある。同年に武田氏が滅すると、信長による苛烈な旧武田家臣の粛清が始まり、恵林寺の快川紹喜焼き討ちなどが起こるが、正一は知己であった武田旧臣を遠江国の桐山に匿った。
 天正10年(1582年)に徳川家康が甲斐国を支配すると、日下部定好とともに徳川氏の関東地方移封までの間、甲斐一国の奉行を務めた。奉行になると米倉忠継,折井次昌をはじめとする武川衆や大久保長安といったかねてより匿っていた武田旧臣の安堵状を家康から取り付け、その取り込みを行った。
 天正13年(1585年)に突如として石川数正が出奔し秀吉に仕えてしまったため、徳川家は三河以来の軍法をそのまま使うことができなくなる。家康は正一に命じて、正一の与力となっていた武川衆による、武田式軍法へ大々的な変更を実施した。この期間に、『旗下大番六備の作法の書』,『分国の仕置』,『法度の式目九十九箇条』,『軍伍』を徳川四奉行の市川家光と共に見つけ出している。また、大久保長安は徐々に頭角を現し、甲州時代の初期には成瀬・日下部の両職の体制であったが、後期には成瀬、日下部、大久保の三奉行の体制になっていたという。因みに、井伊直政の赤備えには正一と共に諸角虎定の首を取り返した石黒将監が加わっている。天正13年(1585年)に新設された根来組の組頭に長男・正成が任じられている。
 家康の関東討入時には道案内を勤め、その後は武蔵国鉢形城の代官に任ぜられ、与力の武川衆と共に統治を行う。天正20年(1592年)には現存する秩父神社の本殿再建を行っている。他にも秩父や八王子は良質の石灰や木材が取れるため、江戸城や城下の建設のため、建材供給を八王子の大久保長安と連携しつつ行っていた。 関ヶ原の戦い時に日下部定好と共に、秀忠の旗奉行として従軍し、後に武蔵・近江に2,100石を与えられた。
 関ヶ原の戦い以後、そのまま伏見城留守居役に任ぜられる。元和元年(1615年)には家康より亀山城を与え諸侯に列するとの内示を受けるがこれを断り伏見で生涯を閉じている。 

成瀬吉正 成瀬正武

 6歳の頃から徳川家康の侍女に育てられるが、17歳の時に突如徳川家を出奔する。浅野幸長の家臣、次いで小早川秀秋の家臣となり、関ヶ原の合戦に従軍する。
 関ヶ原の合戦後は加賀藩の前田利常に仕え、大坂の陣で活躍する。後に加賀藩の家老となり、1万1千石を領する人持組の成瀬掃部助家の祖となる。跡は成瀬當胤が継ぎ、子孫は加賀藩人持組成瀬掃部助家となる。
 父・正一同様、他家に仕官しており、謎の多い経歴の持ち主である。 

 2代将軍・徳川秀忠に6歳の頃から小姓として仕え、のちに花畑番(四番紫幌組)番頭に昇進して5000石を拝領。同時期の小姓組番頭に、水野忠元,井上正就,板倉重宗,日下部正冬,大久保教隆がいる。
 慶長10年(1605年)の徳川秀忠将軍宣下の際に、随身12名の内の1人に選ばれる。慶長16年(1611年)頃から江戸の秀忠と駿府の家康の間の連絡係を行い始める。
 慶長19年(1614年)10月16日に岡崎に滞在中の家康からの密命を秀忠に伝える。その直後大坂攻めの触れが出された。正武も組下の隊士を連れ大坂へ出陣。大坂冬の陣では後藤基次の調略を家康より命ぜられた。家康の陣所まで基次を連れてくることに成功したが、家康自身が応対せず、説得には至らなかった。大坂夏の陣では真田信繁隊の突入を受け、旗本隊が潰走していく中組下の士と共に奮戦した。
 慶長20年(1615年)に将軍秀忠の参内に随伴。同年に突如として安藤重信の預かりとなり、吉祥寺で切腹を申し付けられる。介錯は後の栗原藩主で甥の成瀬之成が行っている。切腹の理由は秀忠参内の際に、女院に近侍する女官と密通した罪で切腹となったとする記録や、小姓組の小山長門守吉久と衆道の盟約を結び、再三の警告にもかかわらず密会を続けた廉で切腹となったとする記録など、不明瞭な罪科での切腹となっている。このため、成瀬正武の切腹には、大久保派であったために大久保長安事件に連座して本多派に粛清された、於江与派として三代将軍に国松を押していたため、家光を押す春日局・天海派に粛清された、大坂夏の陣の際、於江与の密命を帯びて大坂方の脱出の手引きをした、など諸説でているが、真相は不明である。
また、伊東姓を賜姓された祐正の3男・伊東正美は飫肥伊東氏の一門三家の内一家である主水家の祖となり、同じく伊東姓を賜姓された正武の次男・祐秋は図書家の祖となり、伊東氏御一門三家の内二家は正武の子息を祖とする。

伊東祐正 成瀬正順

 旗本・成瀬正武の嫡男として生まれる。幼い頃に井伊直孝邸で行われた宴席で、直孝から直々に正宗十哲の志津三郎兼氏を贈呈される。父の切腹後は、母の実家である飫肥伊東氏を頼り、成瀬祐正を名乗る。父と親しかった直孝や土井利勝,安藤重信をはじめ、従兄弟の正虎,之成らと文通を続け、帰参を申し出続けるも聞き届けられず、伊東内膳祐正と改名し飫肥城松の丸にて失意のまま生涯を終える。

 

 林伊右衛門の次男。成瀬弥次衛門の養子となる。支藩の美濃高須藩に出向して同藩の家老となる。安政の大獄で尾張藩主・徳川慶恕が隠居謹慎して高須藩主・松平義比が徳川茂徳と改名し尾張藩主に就任すると、正順も本藩勤務に戻り、用人,寺社奉行等を歴任した後に隠居する。
 当時、犬山成瀬とは微妙な関係にあったのか、佐幕派のふいご党に近い竹腰派に属していたと言われている。慶応4年(1868年)1月23日に突如として斬首される(青松葉事件)。正順の生家の林家に養子に入っていた次男の林信政も同様に斬首され、正順の孫娘・茂子と婿養子の光太郎は家名断絶の上、お預けとなった。 

成瀬光太郎 成瀬正章

 成瀬正順の長男辰三郎は文久3年(1863年)に死去、辰三郎の長男・鈴吉も慶應元年(1865年)に早世した。そのため、急遽光太郎は末期養子として成瀬家に婿入りした、この時14歳。慶應4年(1868年)光太郎17歳の時に青松葉事件に連座し家名断絶、大番組・山村多聞の預かりとなり、明治3年(1870年)に赦免されるまで座敷牢にて幽閉された。
 青松葉事件は冤罪であったが、天皇親政の時代に逆賊の汚名を受けたことの影響は大きかったらしく、夫妻は住み慣れた尾張を離れ、京都の縁者を頼った。当初は商売をしてみたようだが「武士の商法」のことわざ通り失敗する。その後は商家の子弟に読み書きを教え生計を立てた。
 長男の政彦は名古屋に戻り陸軍軍人となる。妻は日御碕神社宮司・小野尊光の娘。軍隊でも朝敵の汚名が影響し、上司や同僚との喧嘩口論が絶えなかったため中佐まで進んだ時点で退役した。遺言に「天皇親政の世の中で、朝敵の濡れ衣を消し去ることは難しいので、親族から相続人を出さないようにして欲しい」とあった。次男の俊彦は10歳の時に京都の医家、雨森良意の養子となる。

 江戸幕府旗本。父は尾張藩士の成瀬正則の次男で、叔父の成瀬正勝の養子となる。
 寛文2年(1663年)書院番となり、延宝2年(1674年)12月3日、養父が致仕し家督を継いだのち職を辞し小普請となる。元禄4年(1691年)、書院番に復したのちに職を辞した。元禄9年(1696年)に53歳で没し、駒込の海蔵寺に葬られた。家督は娘婿の加賀藩家老・成瀬政全の子・成瀬正起が継いだ。
 天和元年(1681年)、正章の領地の農民と掛塚藩の農民との間で争いが生じ、境界を巡る訴訟となった。掛塚藩側の申し立てに不備があったため、幕府の裁可により掛塚藩主の加賀爪直清および前藩主(養父)の加賀爪直澄は改易のうえ配流となった。