父・親家の死後、隈府城主となる。龍造寺隆信が肥後国に侵攻すると、2人の子を人質に出して降伏した。しかし、後に敵対関係にあった隈部親永が龍造寺氏が支援のもと肥後国で勢力を伸ばしたことが原因で、龍造寺氏から命じられた佐賀への参例を渋ったために疑心ありと見なされ、天正11年(1583年)に龍造寺氏に預けていた人質(14歳の息子・新六郎と8歳の娘の兄妹)が殺害された。これを大いに恨んだ統家は、反龍造寺の旗色を鮮明にして、島津氏の幕下に入り、翌天正12年(1584年)の沖田畷の戦いには先鋒を務める島津家久の陣に赤装束に縄襷という出で立ちで、50人の兵とともに参加している。 だが、以後も島津氏とともに行動したことが原因で、豊臣秀吉の九州征伐の後に所領を没収され、隈府城を取り戻せず、最後は阿波国で死去した。なお、統家の娘は筑後国柳川城の蒲池鎮漣の正室であり、朽網鑑房の妻となった蒲池徳子の母親とされる。また、加藤清正に仕えた赤星親武は統家の子とされる。
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肥後国菊池氏の出身。加藤清正に仕え、加藤十六将の一人に数えられた。後に清正の紹介で豊臣秀頼の直参となった。大坂の陣では豊臣方で戦い、大坂夏の陣において天王寺口で戦死した。死ぬ直前、子の道重を逃がしている。 |