文化3年1月18日(1806年3月7日)、叙爵。文化6年9月13日(1809年10月21日)、東宮児に任じられ、文化13年まで務めた。同年10月17日(1816年12月5日)、15歳で元服し昇殿を許された。文政7年8月8日(1824年8月31日)、拝賀した。 天保8年3月11日(4月15日)、従三位に叙され、公卿に列せられた。弘化3年3月4日(1846年3月30日)、仁孝天皇崩御を受けて当色を賜い、同月7日(4月2日)には素服を賜い服喪、4月4日(4月29日)に除服宣下を受けた。 弘化5年から四年連続で踏歌節会の外弁を務め、嘉永4年の踏歌節会では、一献の後に退出した。嘉永5年11月22日(1853年1月1日)、豊明節会の外弁を務め、一献の後に退出した。 安政5年1月2日(1858年2月15日)、初めて白馬節会の外弁を務めた。同年3月12日(4月25日)、参内して日米修好通商条約締結の条約案の内容の撤回を要求する書状に連署した(廷臣八十八卿列参事件)。 文久3年1月2日(1863年2月19日)、白馬節会の外弁を務め、12月29日(1864年2月6日)、参議に任じられた。 慶応3年1月27日(1867年3月3日)、孝明天皇が崩御したことに伴い当色を賜い、2月2日(3月7日)に素服を賜い服喪、2月28日(4月2日)に除服宣下を受けた。9月26日(10月23日)、参議を辞し、3月20日(1868年4月12日)、権中納言に任じられ、8月19日(10月4日)に辞した。 明治4年2月8日(1871年3月28日)、隠居し、養嗣子量衡に家督を譲った。明治7年(1874年)6月19日、薨去。
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