| F606:藤原経輔 | 藤原道隆 ― 藤原経輔 ― 藤原師信 | F607:藤原師信 |


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| 藤原師信 | 藤原経忠 |
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寛治2年(1088年)、行幸によって勧賞され、正四位下に叙される。その後、丹後守を務める。寛治3年(1089年)内蔵頭として賀茂臨時祭の記事に名がある。寛治6年(1092年)公卿議の間、東方に赤雲が有った際、師信が夢想があったと告げている。寛治7年(1093年)殿上人となっており、播磨守を兼任。同年2月に郁芳門院院別当に任ぜられる。その後、正四位上に昇り、修理権大夫を務める。寛治8年(1094年)正月10日に飲水病により54歳で卒去。媞子内親王の院別当を務めた際、『執行万事』と評されている。 |
応徳3年(1086年)従五位下に叙爵。越前権守,左兵衛佐,周防守を歴任し、嘉保3年(1096年)従四位上に昇り、永長2年(1097年)兵部大輔に任ぜられる。康和5年(1103年)宗仁親王の立太子に伴い、東宮昇殿を許される。なお、この間の康和4年(1102年)9月に、火災により経忠の邸宅が焼亡している。嘉承2年(1107年)堀河天皇が崩御し、宗仁が即位し鳥羽天皇となると、引き続き昇殿を許される。同年、馬1匹を奉献するための使者として派遣される。嘉承3年(1108年)邸宅に落雷があり、侍者一人が死亡した。 |
| 藤原信輔 | |
| 久安5年(1149年)当時、因幡守を務めている。久寿3年(1156年)右京大夫に任ぜられる。保元元年(1156年)7月に鳥羽法皇が崩御した際に、藤原成親,源光保,信西,藤原惟方ら8人と法皇の遺体を入棺したという。その後出家し、太秦入道と号した。元暦元年(1184年)卒去。 |