<藤原氏>北家 為光流

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戸田氏成 戸田氏房

 美濃大垣新田藩(三河畑村藩)の初代藩主。大垣藩戸田家分家初代。赤穂事件で知られる浅野長矩の従弟にあたる。
 万治2年(1659年)、美濃大垣藩の第3代藩主・戸田氏西の次男として生まれる。貞享元年(1684年)に分家で6200石を領する大身旗本の戸田氏利の養子となり、貞享5年(1688年)7月10日に家督を継ぐ。このとき、兄の氏定から新田3000石を分与されて1万石の大名となり、大垣新田藩の藩祖となった。
 元禄5年(1692年)3月、同国郡上八幡藩主の遠藤常久が7歳で死去したことにより、遠藤家は無嗣改易となった。幕府では遠藤家の祖先の功績などを考慮し、徳川綱吉の側室・お伝の方(瑞春院)の妹・お松と旗本・白須政休の長男の白須数馬を、同年5月に一旦、遠藤家の親族で数馬の義理の伯父(お伝の方の姉・お初の夫)にあたる氏成の養子とした上で、これをさらに遠藤家の養子とし、常陸,下野国内で1万石を与えて大名遠藤家の再興を認めた。
 元禄14年(1701年)3月、従弟の浅野長矩が高家旗本の吉良義央に斬りつけたため、縁戚による連座処分により6月まで出仕停止に処された。同年10月、従五位下・淡路守に叙位・任官する。
 正徳3年(1713年)、領内に倹約令を出して元禄文化による華美な文化の抑制、苦しくなる藩財政の再建に努めた。享保4年(1719年)5月3日に死去。享年61。

 宝永元年(1704年)、美濃大垣藩の第4代藩主・戸田氏定の5男として生まれる。母は安田藤九郎の娘・於類。享保4年(1719年)に大垣藩新田藩の初代藩主・氏成が死去したため、家督を継いだ。
 三河国,美濃国両国内で1万石を領し、従五位下・右近衛将監に叙位・任官し、三河国渥美郡畑村に居館を営んだ。資性温雅寡言、体躯雄偉にして古将の風ありといい、享保10年(1725年)7月21日、江戸城内にて松本藩主・水野忠恆が長州藩支藩の長府藩世子・毛利師就に斬りかかったところ、師就は不意をつかれて負傷したものの、腰刀で忠恆の脇差を落とし、そこに通りかかった氏房が忠恆の腰刀を奪い、速やかに狼藉を鎮定したという。ちなみにこの事件は忠恆と師就は面識がなく、自らの不行跡が世に知れ渡って、所領を没収され、それが毛利師就に下賜されると聞いたことから、斬りつけたとあらぬ妄言を述べたことから、忠恆の妄想による乱心として改易、本人は叔父である水野忠穀の許に蟄居させられた。
 その後、氏房は大番頭,奏者番,西丸若年寄を歴任する。宝暦9年(1759年)10月23日に死去した。享年56。跡を長男の氏之が継いだ。

戸田氏良

 天保10年(1839年)5月28日、美濃大垣藩の第9代藩主・戸田氏正の次男として生まれる。大垣新田藩の第7代藩主・戸田氏綏の養子となり、安政2年(1855年)5月、氏綏の死去により家督を継ぎ、従五位下・淡路守に叙位・任官される。
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順して北越戦争に出兵した。しかし大垣新田藩は大垣藩の支藩であり、なおかつ藩の内情を本家に頼りきっていたため、明治2年(1869年)の版籍奉還では藩知事に任命されなかった。そこで5月27日、藩庁を美濃大野郡野村に移して野村藩と改称し、その上で所領引渡しなどの政治工作を行なった。このため10月22日、氏良は野村藩知事に任命された。
 明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職となる。その後、正五位に昇叙され、子爵を賜った。明治25年(1892年)3月16日に死去した。享年54。
 短歌に優れた歌人でもあり、『明治勅題歌集』54巻や『増補勅題歌集』47巻に氏良の歌が収録されている。