<藤原氏>北家 高藤流

F467:藤原為房  藤原良門 ― 勧修寺高藤 ― 甘露寺為輔 ― 藤原宣孝 ― 藤原為房 ― 藤原朝隆 F493:藤原朝隆

リンク
藤原朝隆 藤原朝方

 冷泉中納言と号す。白河院政期中期の天永元年(1110年)、文章生に補せられると、修理亮,六位蔵人,左近将監を経て、永久4年(1116年)に従五位下に叙爵する。白河院政期末にかけて、弾正少弼,刑部大輔等を歴任した。
 鳥羽院政期に入ると、長承2年(1133年)、左衛門権佐(検非違使佐)に任ぜられると、保延2年(1136年)五位蔵人,保延3年(1137年)右少弁と次々に要職に任ぜられ、三事兼帯の栄誉に浴した。また、鳥羽天皇皇后・藤原泰子の皇后宮大進も務めている。
 その後、20年近くに亘って弁官を務め、久安6年(1150年)蔵人頭兼右大弁に叙任されるなど昇進を重ねた。鳥羽院政期末の仁平3年(1153年)参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として引き続き右大弁を兼帯したが、保元元年(1156年)従三位・権中納言に叙任されて、弁官を去っている。保元2年(1157年)に正三位に至る。
 保元3年(1158年)に致仕し、翌平治元年(1159年)10月3日薨去。享年63。

 

 三条大納言,堤大納言と称された。鳥羽法皇・後白河法皇二代に亘って仕えた院近臣。
 永治元年(1141年)11月、鳥羽院庁の判官代から六位蔵人に任ぜられ、翌永治2年(1142年)に従五位下に叙任された。以降、淡路守,近江守,弁官などを歴任した。鳥羽院別当を務めていたため後白河法皇の信任を得て、後白河院庁でも別当に任じられ、法皇最大の側近の一人(院近臣)として活躍した。
 永万2年(1166年)に蔵人頭兼右大弁に就任、さらに安元元年(1175年)11月、参議に就任し公卿に列した。安元3年(1177年)10月に権中納言となり、寿永2年(1183年)4月からは正式な中納言に就任。11月に木曾義仲が後白河法皇に対するクーデターを起こし、義仲からの圧力で解官されたが、法皇の信任を失っての解官ではないことから、義仲が直後に鎌倉軍に征討された後はすぐに復権した。文治2年(1186年)12月に陸奥出羽按察使に任じられ、文治4年(1188年)10月に権大納言に昇進した。しかし源義経に同意したとされて鎌倉の源頼朝の圧力により再び解官された。
 後白河法皇の庇護でまもなく復官したが、やがて病に倒れて建仁元年(1201年)2月15日に出家し、翌16日に薨去、享年67。能書家としても知られた。