<藤原氏>北家 高藤流

F469:坊城光房  藤原高藤 ― 甘露寺為輔 ― 藤原宣孝 ― 坊城為房 ― 坊城光房 ― 海住山長房 F486:海住山長房

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海住山長房 二条定高
 覚真は俗名を藤原長房といい、参議にまで上った人物であったが、41歳にして出家し、貞慶の弟子となった。海住山寺の文書には、貞慶の一周忌にあたる建保2年(1224年)、覚真が仏舎利七粒を塔に安置したとの記録があり、これが現存する五重塔の完成を意味するものと解釈されている。  建久9年(1198年)に六位蔵人となり、同年従五位下に叙される。以後、諸国の国司を歴任。承元3年(1209年)、兄・長房の参議辞任による譲りを受けて右少弁に抜擢される。建保2年(1214年)に右大弁兼蔵人頭となり、安房国を知行国として与えられる。建保6年(1218年)には参議に任じられ、承久元年(1219年)に従三位に叙され、翌承久2年(1220年)に権中納言に昇る。葉室宗行から従四位下を譲られるほど親しかったが、承久の乱においては定高は兄・長房とともに後鳥羽上皇の挙兵に反対する立場に回り、宗行と運命を分けた。九条道家から信頼が厚く、特に承久の乱後にはその政治顧問の最上位を占めて平経高らと道家を支えた。特に承久の乱での経緯から鎌倉幕府からは好意的に見られ、関東申次であった道家の下で実際の幕府との交渉を行っていたのは全て定高であったとされている。また、斎宮であった後鳥羽上皇の皇女・煕子内親王を深草の別邸で引き取ったことでも知られている。貞永元年(1232年)に正二位に昇るが、権中納言を辞任、嘉禎2年(1236年)に按察使に任ぜられる。暦仁元年(1238年)の病のために出家、間もなく没した。