<藤原氏>北家 高藤流

F456:上椙盛憲  藤原良門 ― 藤原高藤 ― 藤原定方 ― 藤原説孝 ― 藤原盛実 ― 上椙盛憲 ― 上杉顕定 F463:上杉顕定

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上杉顕定 上杉氏定

 扇谷上杉家初代当主。正平6年/観応2年(1351年)、上杉藤成の子として誕生。二橋上杉家の上杉朝定の養子となった。
 養父・朝定は丹波国守護だったが、貞治年間頃(1360年代)に顕定は関東に下向して2代鎌倉公方・足利氏満に仕え、鎌倉扇谷の地に居住し、扇谷上杉家の祖となった。二橋上杉氏は顕定の義弟で朝定の実子・朝顕が継承して八条上杉家となった。
 天授6年/康暦2年(1380年)、死去。享年30。甥の氏定が跡を継いだ。

 父の兄弟である顕定の跡を継いで鎌倉公方の足利氏満・満兼に仕え、満兼の没後は足利持氏に仕えた。
 上杉禅秀の乱が勃発した際、当初劣勢であった持氏方に合力するため出陣したが、上杉氏憲(禅秀)の反乱軍に敗れ重傷を負い、後に持氏らが鎌倉を退去する際は同道できずに、応永23年(1416年)10月8日、藤沢において自刃した。
 家督は嫡男の持定が継承したが、持定もまもなく没し、次男の持朝がその後を継いだ。

上杉持定 上杉持朝

 応永23年(1416年)、父の氏定が上杉禅秀の乱の緒戦において持氏方として出陣した際、氏定の子が共に出陣したとあるが、持定と思われる。この戦いにおいて父は敗北、負傷し自害したため、跡を継いだ。
 持定は鎌倉から一時撤退した鎌倉公方・足利持氏と共に今川氏を頼ったと思われる(当時、今川氏と扇谷上杉家は縁戚関係にあった)。禅秀の乱の終結の後、持定もわずか3年後に亡くなったため、扇谷上杉家の家督は弟の持朝が継承した。当時、持朝は幼かったため、従兄弟の上杉定頼(小山田上杉家)が陣代となり当主を代行した。

 上杉禅秀の乱において父の氏定が戦死し、跡を継いだ兄の持定もまもなく亡くなったため、従弟で小山田上杉家の上杉定頼の補佐を受ける形で家督を継承する。祖先である上杉朝定の「朝」を用いて、「持朝」と名乗った。
 永享11年(1439年)の永享の乱では、関東管領・上杉憲実に従って鎌倉公方・足利持氏討伐に功績を挙げた。翌永享12年(1440年)の結城合戦でも、幕府軍の副将を務めて武功を挙げている。結城合戦後、上杉憲実は隠退を表明し、後継者に指名された弟の清方の力量に不安を覚えた室町幕府は憲実の復帰を説得する一方で、清方の補佐として持朝の協力を期待した。永享の乱後、持朝は修理大夫に任ぜられ、続いて結城合戦後、遅くても文安4年(1447年)までには相模守護に任ぜられた。更に清方が急死して、憲実の子である上杉憲忠が関東管領に就任すると、娘を憲忠に嫁がせたことにより、持朝は実力者として認められることになる。
 文安6年(1449年)、持氏の子・足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、かつて持氏を滅ぼしたことを憚り、嫡男の顕房に家督を譲って出家し道朝と号した。享徳3年(1454年)、関東管領で持朝の娘婿でもあった上杉憲忠が成氏に暗殺されると(享徳の乱)、持朝は憲忠の弟・房顕を新たな関東管領に擁して、自身は裏で実権を牛耳るにいたったのである。これにより成氏と敵対関係となったため、成氏に対抗するために長禄元年(1457年)には家宰の太田道真・道灌父子に命じて河越城,江戸城、そして岩槻城の三城を築城させ、自らは河越城を居城とし、武蔵の分国化を進めた(道灌によって築かれたとされていた岩槻城は、成氏方の成田正等の築城説が現在は主流である)。
 ところが寛正元年(1462年)、今度は兵粮料所の設置を巡る争いから堀越公方となっていた足利政知と敵対関係になるに至ってしまう。このため持朝は政知を支援する8代将軍・足利義政からの詰問を受ける。結果、持朝の代わりに責任を負う形で大森氏頼,三浦時高,千葉実胤の3重臣が引退することになり、持朝の勢力は大いに低下した(政知の執事・渋川義鏡の讒言が原因)。これを機に持朝は成氏と和睦して政知と争おうとしたが、その和議を果たせずして応仁元年(1467年)9月6日、52歳で死去した。

上杉顕房 上杉政真
 宝徳元年(1449年)、滅ぼされた足利持氏の遺児の永寿王(足利成氏)が鎌倉公方に復帰した際に、父の持朝が隠居したため扇谷家の家督を継承する。家宰・太田資清の補佐を受けていた。成氏が関東管領の上杉憲忠(山内上杉家)を殺害し享徳の乱が勃発すると、上杉氏の一門として上杉憲顕(犬懸上杉家)や長尾景仲(白井長尾氏)らと共に軍勢を率いて相模江の島などで成氏と戦うが、武蔵分倍河原の戦いにおいて敗北、自害した。子の政真はまだ幼かったため、扇谷上杉家は父の持朝が当主として復帰した。

 享徳4年(1455年)、父・顕房が分倍河原の戦いにおいて戦死したため、重臣の太田道真は政真を当主にしようとしたが、まだ幼かったため先代当主で政真の祖父にあたる持朝が当主に復帰している。応仁元年(1467年)の祖父の死により家督を相続し、扇谷上杉家を継いだ。
 文明3年(1471年)、古河公方・足利成氏が堀越公方・足利政知のいる伊豆への進撃を図った。政真はこれを撃退し、古河城の逆襲に成功、成氏は千葉孝胤を頼って落ち延びた。しかし、成氏は反撃に出て文明4年(1472年)に古河城を奪回。文明5年(1473年)、政真は武蔵児玉郡五十子陣にあった上杉氏の居城を成氏に急襲されて敗れて戦死した。政真には子がなく、重臣による協議の結果、叔父の定正が家督を継承した。 

上杉朝昌 上杉定正

 その生涯には不明な部分も多いが、初めは僧侶として京都の相国寺において本東と名乗り、長禄2年(1458年)に父・持朝の名代として将軍・足利義政に拝謁した人物が朝昌と考えられている。
 享徳の乱初期には相国寺鹿苑院の喝食だったが、後に何らかの理由で還俗して扇谷上杉家の領国支配の一翼を担い、相模国七沢要害(現神奈川県厚木市)に入った。七沢要害は相模中郡の、また後年守備した大庭要害は相模東郡の要衝であることから、扇谷上杉氏の両郡支配を実質的に担う立場にあったと考えられる。また文明12年(1480年)に足利義政・義尚父子に進物を贈るなど、扇谷上杉氏当主とは別に、独自に幕府と交流を持っていたようであり、その政治的地位の高さも窺える。これらの事例から、扇谷上杉氏におけるきわめて有力な一門だったと考えられる。
 長尾景春の乱が起こると、文明9年(1477年)に太田道灌,千葉自胤らと共に豊島泰経攻撃に参加した(江古田・沼袋原の戦い)。上杉家同士の内訌である長享の乱が始まると、長享2年(1488年)に関東管領・上杉顕定の侵攻を受けて七沢要害は陥落し、以後は大庭要害(現藤沢市)に拠った。
 兄・定正の死後、自分の子である朝良を当主としてその後見役となったが、伊勢宗瑞(北条早雲)の相模進出に伴い勢力を失っていった。明応8年(1499年)9月6日、父・持朝の三十三回忌法要が行われたが、この時点で生存している持朝の男子は3人(三浦高救,叔彭梵寿,朝昌)だった。永正年間に再び出家して光迪と名乗ったことは確認できるが、その後の動向は不明。享年は71とされているものの、生没年も不詳である。


 一般には『南総里見八犬伝』の影響で扇谷定正の名前で知られている。
 扇谷上杉家は関東管領・上杉氏の一族で、相模守護を務め関東管領を継承する山内上杉家の分家的存在であった。扇谷家は鎌倉公方・足利持氏と山内家が対立して持氏が滅ぼされた永享の乱で山内家に味方し、享徳3年(1453年)以来の持氏の子の古河公方・足利成氏との長期の戦いである享徳の乱でも山内家を支える。扇谷家家宰の太田道真・道灌父子は、河越城,江戸城を築城するなどして、扇谷家の勢力は大いに拡大した。山内家と扇谷家は両上杉家と呼ばれるようになっていた。
 文明5年(1473年)、扇谷家当主だった甥の上杉政真が五十子の戦いで古河公方に敗れて戦死すると、政真の叔父にあたる上杉定正が家督を継ぐ。定正は関東管領・山内上杉顕定と共に五十子陣に在陣して古河公方成氏と対峙した。しかし、文明8年(1476年)に山内家の有力家臣・長尾景春が反乱を起こし、翌文明9年(1477年)に五十子を急襲、定正と山内顕定は大敗を喫して上野国へ敗走する(長尾景春の乱)。上杉方は危機に陥るが、扇谷家家宰・太田道灌の活躍によって豊島氏をはじめとする各地の長尾景春方を打ち破り、定正も転戦して扇谷家本拠の河越城を守った。
 文明14年(1482年)に長尾景春は没落し、古河公方・成氏とも和睦が成立した。だが、定正は山内家主導で進められたこの和睦に不満であり、定正と山内顕定は不仲になる。また、乱の平定に活躍した家宰・太田道灌の声望は絶大なものとなっており、定正の猜疑を生んだ。文明18年(1486年)7月26日、定正は太田道灌を相模糟屋館に招いて暗殺。死に際に、道灌は「当方滅亡」と呻いたという。
 太田道灌謀殺により道灌の子・太田資康をはじめ多くの家臣が扇谷家を離反して山内顕定の元に奔り、定正は苦境に立つ。道灌の軍配者(軍師)の斎藤加賀守のみは定正の元に残り、定正はこれを喜び重用した。山内家と扇谷家の緊張が高まり、長享2年(1488年)の山内顕定の攻撃によって戦端が開かれた(長享の乱)。更に異母兄の三浦高救も扇谷家当主の座を狙って動き始めた。
 これに対して、定正は長尾景春を味方につけ、仇敵であった古河公方・足利成氏とも同盟を結んで対抗し、実蒔原の戦い,須賀谷原の戦い,高見原の戦いに寡兵をもって勝利して大いに戦意を高めた。しかし、連戦に疲弊し次第に劣勢となる。定正は古河公方を軽んじた振舞いに出るようになり遂に盟約は崩壊し、これを定正の驕りと見た家臣の中には山内顕定や古河公方に寝返る者も現れた。重臣の大森氏頼は諫言して山内顕定や古河公方との和解を勧めるが、定正はこれに従わず山内家との抗争を続けていく。
 明応2年(1493年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国に乱入して堀越公方・足利茶々丸を駆逐した。この伊勢宗瑞の伊豆討入りには定正の手引きがあったとの見方が古来強い。定正は伊勢宗瑞と結ぶことになる。
 明応3年(1494年)、扇谷家重臣・大森氏頼と三浦時高が相次いで死去する。同年10月、定正は伊勢宗瑞とともに武蔵国高見原に出陣して山内顕定と対陣するが、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去。享年49。太田道灌の亡霊が定正を落馬させたのだとする伝説がある。長岡市にある定正院が菩提所と伝えられている。
 定正,大森氏頼,三浦時高の三将の死は扇谷家にとって大きな痛手となった。甥で養子の上杉朝良が跡を継ぐが、伊勢宗瑞とその子・氏綱の侵攻により、扇谷家は徐々に所領を蚕食されていく。 

上杉朝良 上杉朝興

 父の実兄にあたる伯父・上杉定正の養子となる。朝良は文弱であったため、養父からは武芸に身を入れるように度々注意されたという。
 明応3年(1494年)、関東管領・山内上杉家の上杉顕定との戦いで養父が戦死すると、武蔵河越城に入って家督を継ぐ。朝良は顕定への報復を誓うが、生前の定正が家臣の讒言を信じて重臣・太田道灌の粛清を行ったことなどが災いして家臣の離反が相次ぎ、扇谷上杉家は衰退の一途を辿っていた。
 そこで、駿河守護である今川氏親に顕定打倒への支援を依頼する。これに対して氏親は伊豆国を平定していた重臣・伊勢宗瑞(北条早雲)を遣わしてこれを援けさせた。だが、宗瑞はその最中に扇谷家の家臣である大森藤頼の拠る小田原城を奪い取るという事件を起こす。今川氏との関係を重視する朝良は宗瑞の小田原城占拠を事実上容認してしまう。小田原城奪取について、大森藤頼が既に山内上杉家に寝返っており、朝良の了解のもとに宗瑞が行ったとの説もある。
 永正元年(1504年)、朝良は今川氏親,伊勢宗瑞の来援を得て、武蔵立河原で顕定と戦い大勝する(立河原の戦い)。だが、実力に勝る顕定は直ちに反撃に出て、河越城は山内上杉軍によって囲まれる。ここにおいて朝良は事実上の降伏をして開城して甥にあたる上杉朝興(朝良の実兄・朝寧の子)を養子に迎えて家督を譲り、江戸城へ隠居することになった。だが、扇谷上杉家の重臣はこの処置に反抗の姿勢を見せたため、顕定もこれ以上の強要はできず、以後も朝良が扇谷上杉家当主の職務を続けている(近年では朝興擁立そのものが、朝良の死後にその子を廃して家督を継いだ朝興による創作とする説もある)。
 その一方で、こうした事態にも関わらず伊勢宗瑞は扇谷上杉家からの軍事協力の要請を大義名分として相模国の各地へと進出し、扇谷上杉家の領国であった相模国は侵食されていった。だが、永正7年(1510年)、顕定が越後国で同国の守護代・長尾為景(上杉謙信の実父)に討たれ、一方では伊勢宗瑞が扇谷上杉家の重臣・上田政盛に対して離反を勧めていることが発覚すると、朝良・朝興は、山内上杉家を継いだ上杉憲房と和解して宗瑞との戦いを開始した。だが、間もなく山内上杉家と古河公方家で相次いで家督を巡る内紛が発生して、朝良はこれらの仲裁に奔走することになる。結局、仲裁は失敗した上、永正15年(1518年)には宗瑞によって相模における扇谷上杉家最後の拠点であった三浦郡の三浦道寸が攻め滅ぼされてしまう。
このような状況下で朝良は病死する。だが、朝良は晩年に生まれた実子・藤王丸を愛して朝興を廃する考えを抱いたために、朝良没後の扇谷上杉家は内紛状態に陥ってその衰退に拍車をかけることになる。 

 長享2年(1488年)、上杉朝寧の子として生まれる。叔父の上杉朝良の養子となる。永正2年(1505年)、山内上杉家との抗争に敗れた朝良は隠居を余儀なくされたため、家督を継いで扇谷上杉家の当主となるが、実権は依然として朝良が握っていた。永正15年(1518年)に朝良が病死し、実権を掌握するが、朝良には晩年になって実子の藤王丸が生まれており、朝良は死に臨んで藤王丸が成長した際に家督を譲るように遺言し、朝興は藤王丸の後見人(名代)のような立場になったとされている。
 大永4年(1524年)1月、太田資高が相模国の新興大名である北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。大永5年(1525年)2月にも北条氏綱の攻撃を受けて、家臣の太田資頼が守る岩付城が陥落した。このため、朝興は宿敵であった山内上杉家の上杉憲房や、甲斐国の都留郡において北条方と抗争していた守護・武田信虎、更に上総国の実力者である真里谷恕鑑との同盟を模索している。同年8月、白子原の戦いで北条勢を破り、翌大永6年(1526年)6月には蕨城を奪回した。
 享禄3年(1530年)6月、小沢原の戦いでは氏綱の嫡男・北条氏康に敗れたが、同年9月には太田資頼の攻撃によって岩付城を奪回している。
 天文元年(1532年)、藤王丸を殺害(享年15)し、自らの息子である朝定を正式に後継者にした。天文2年(1533年)には武田信虎の嫡男勝千代(晴信)の正室として娘を嫁がせるなど、山内上杉家・武田氏らと連携して北条氏綱を攻めたが、遂に江戸城奪回を果たすことなく、天文6年(1537年)4月27日、河越城で病死した。享年50。跡を子の朝定が継いだ。

上杉朝定 上杉憲勝

 扇谷上杉家の事実上最後の当主である。大永5年(1525年)、上杉朝興の子として生まれる。天文6年(1537年)4月に父が死去したため、家督を継いで当主となる。そして、後北条氏に対抗するため、武蔵国府中・深大寺に深大寺城を築いている。ところが、若年の朝定が家督相続したのを好機と見た北条氏綱に、7月には河越城を攻められ、朝定は敗走して、以後は松山城を居城とした。
 天文10年(1541年)、長年抗争していた宿敵・山内上杉家の上杉憲政と和睦し、北条氏康に対抗する。天文14年(1545年)には駿河の今川義元と連携して対北条大包囲網を作る。義元が挙兵して氏康が駿河へ出陣した隙に、憲政や古河公方・足利晴氏らと連合した8万の大軍で河越城を攻める。河越城主・北条綱成の善戦に遭うものの、落城寸前にまで追い込んだ。しかし、翌天文15年(1546年)4月20日、今川との戦いを収めて河越城の後詰にかけつけた氏康の奇襲に遭い、河越の戦い(河越夜戦)で扇谷上杉軍は大敗、朝定は討死、他の連合軍は四散し河越城奪還の夢は砕かれた。享年22。ただし、朝定を誰が討ち取ったかや、死亡状況を伝える記録が全く存在しないことから、朝定の実際の死因は病死の可能性も含めて不明であり、連合軍の崩壊の原因を北条軍の奇襲ではなく、朝定の突然の死に求める説もある。朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興を図ったが、まもなく後北条氏に屈服している。 

 扇谷上杉氏の一族とも言われるが、出自は深谷上杉家あるいは山内上杉家で扇谷家の猶子であったも言われる。上杉朝昌の子とも、上杉定正の子とも、上杉朝興の子ともいう。はじめ七沢七郎を名乗って奥羽を浪人していたという。朝興の子である朝定(後者の説に従えば、憲勝の兄)が川越夜戦で戦死して扇谷上杉氏の嫡流が滅亡すると、太田資正に擁立されてその跡を継ぐ。
 1559年(永禄2年)、太田資正が北条氏康から松山城を奪還すると、城主として入城する。しかし、2年後には北条・武田連合軍に包囲されて降伏した。上杉輝虎は憲勝の救援に向かっていたが、石戸城に到達したところで憲勝降伏の知らせを聞き激怒し、人質に取っていた憲勝の子を斬り殺したという。