<藤原氏>北家 高藤流

F456:上椙盛憲  藤原良門 ― 藤原高藤 ― 藤原定方 ― 藤原説孝 ― 藤原盛実 ― 上椙盛憲 ― 上杉憲藤 F461:上杉憲藤

リンク {G351}
上杉憲藤 上杉朝房

 犬懸上杉家の始祖である。山内上杉家の祖・上杉憲顕の弟で足利尊氏・直義の母方の従弟にあたる。
 足利尊氏に仕え、建武4年/延元2年(1337年)に関東執事に任じられた。暦応元年/延元3年(1338年)2月には尊氏に従って上洛し、摂津で南朝方の北畠顕家と戦って奮戦する。しかし3月15日、摂津渡辺河の戦いで奮戦したものの戦死した。享年21。跡を子の朝房が継いだ。 

 延元3年/暦応元年(1338年)、父・憲藤が摂津で戦死した時、幼少だったために弟の朝宗と共に家臣の石川覚道に養育された。正平19年/貞治3年(1364年)、上総の守護に任じられ、正平21年/貞治5年(1366年)には信濃の守護に任じられる。正平23年/応安元年(1368年)2月に起こった武蔵平一揆の乱を伯父・憲顕と共に鎮圧、9月の伯父の死に伴い従兄の上杉能憲と共に関東管領に任じられ、能憲と共に「両管領」と称されて幼少の足利氏満を補佐した。
 建徳元年/応安3年(1370年)、下命に抵抗する善光寺別当の栗田氏を居城栗田城に攻めるが退けられたこともあって8月には管領職を辞表を提出した。通説ではこれをもって辞任とするが、実際に辞任が認められたことを示す史料は存在しないため、その後も関東管領の任にあった可能性がある。その後、一旦京都に上り、文中3年/応安7年(1374年)には鎌倉に戻っているものの、天授3年/永和3年(1377年)には信濃の国務に関する室町幕府の命令を京都で直接受けていることが判明しており、この時には京都に滞在していたとみられている。
 元中8年/明徳2年(1391年)に京都にて死去したと言われているが、没年には異説が多い。

上杉朝宗 上杉氏憲

 延元3年/建武5年(1338年)、父が戦死した時は幼少であったため、兄の朝房と共に家臣の石川覚道に養育された。正平20年/貞治4年(1365年)から天授2年/永和2年(1376年)まで上総守護に補任され、天授3年/永和3年(1377年)に兄から家督を譲られて犬懸上杉家の当主となった。応永2年(1395年)3月に関東管領に就任、同時に武蔵守護にも任じられた。
 応永6年(1399年)、応永の乱で大内義弘に共謀して鎌倉公方・足利満兼が呼応して挙兵しようとした時はこれを諌めたため、満兼は出兵が大幅に遅れ、義弘は3代将軍足利義満に討たれることとなったと言われている。応永12年(1405年)9月、関東管領を辞任。応永16年(1409年)、満兼の死を契機に剃髪して禅助と号し、上総に隠退、家督も子の氏憲に譲った。
 応永21年(1414年)8月25日死去。享年81。墓所は上総長柄郡長柄山の眼蔵寺。生年には異説が多く、父の死後の延元4年/暦応2年(1339年)出生とも言われている。 

 応永16年(1409年)、父・上杉朝宗の隠居により犬懸上杉家の家督を継ぐ。奥州より侵攻してきた伊達政宗を撃退し、功績を挙げる。応永18年(1411年)2月9日、山内上杉家の上杉憲定の跡を継いで関東管領に就任し、若年であった鎌倉公方・足利持氏を補佐した。しかし、持氏は氏憲を疎ましく思い、氏憲の対立者であった憲定の息子・憲基を重用するようになる。
 応永22年(1415年)には氏憲(禅秀)の家臣の不出仕を理由に所領を没収し、禅秀が抗議して関東管領を辞任すると、持氏は憲基に継がせた。これに不満を抱いた禅秀は、持氏の叔父・満隆と養嗣子で持氏の弟・持仲らと共謀の上挙兵して持氏の居館を襲撃し、持氏・憲基を駿河・越後に追放して鎌倉を制圧した。室町幕府4代将軍・足利義持は持氏の救援を支持し、北からは上杉房方(憲基の伯父)、西からは今川範政を中心とした幕府軍が攻め寄せる。禅秀は防戦したが、配下の武将達が次々と離反するに及んで遂に力尽き、応永23年(1417年)1月10日、満隆や持仲と共に鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で自害した(上杉禅秀の乱)。

上杉憲方 上杉憲顕
 上杉禅秀の乱の際、足利持氏を油断させるため、持氏への使者として派遣され、父の病気(仮病)を伝えたといわれる。鎌倉から持氏を追放した後、持氏派の武士を討伐するため出陣した足利持仲の補佐として武蔵へ向かったものの敗れ、鎌倉へ引き返した。鎌倉において父やその他多くの一族とともに自刃した。   上杉禅秀の乱の際には父に従い一軍を率いて鎌倉公方・足利持氏と戦ったが、途中で病を得て戦線を離脱したため京へ逃れ、命を長らえた。後に享徳の乱の緒戦において、関東管領・上杉憲忠を殺害した鎌倉公方足利成氏(持氏の子)を討伐するために上杉顕房(扇谷上杉家)や長尾景仲(白井長尾氏)らと共に転戦した。分倍河原の戦いにおいて先陣を務めたものの、成氏の猛攻に遭い破れ、現在の高幡不動の地において自刃した。同所に墓所が残る。 
上杉教朝 上杉政憲

 常陸国人の大掾満幹の養子となっていたが、父が上杉禅秀の乱を起こし一族の多くと共に敗死・自刃すると、兄の憲秋,持房らと共に京都に逃亡し僧になった。後に還俗し永享の乱,結城合戦において兄と共に軍を率い室町幕府方として活躍した。後に享徳の乱をおこし追放された足利成氏に代わって鎌倉公方として派遣された足利政知に渋川義鏡らと共に付き従って鎌倉入りを目指したが政情不安のため果たせず、政知は堀越に留まり堀越公方となり、教朝は関東執事となった。
 寛正2年(1461年)に死去。死因は病死とも渋川義鏡の策謀による自害ともいわれる。関東執事は子の政憲が継承し、養子の朝定(越後守護・上杉朝方の実子)は山本寺氏の祖となった。 

 父・教朝は、寛正2年(1461年)、渋川義鏡の讒言により自害する。この事態を憂慮した義政は政憲を後任の関東執事として義鏡排除の許可を与えて政知のいる伊豆国に下らせた。
 寛正3年(1462年)、政憲は渋川義鏡を弾劾してこれを退けると、関東管領・上杉房顕と結んで古河公方・足利成氏の排除を画策する。寛正6年(1465年)、政憲は縁戚である駿河今川氏の一族・小鹿範満の支援を受けて関東地方に出陣、上杉房顕や扇谷上杉家の太田道灌と共に武蔵太田庄で成氏方と戦うが、翌年に房顕が急死したために撤退した。
 文明8年(1476年)、駿河守護・今川義忠の死後に小鹿範満が後継者として浮上すると、太田道灌とともに範満を今川氏当主にすべく出陣するが、対立する義忠の嫡男・龍王丸(後の今川氏親)の伯父・伊勢盛時(北条早雲)との談判によって撤退をした。
 その後、上杉氏と古河公方の間で和解の機運が盛り上がると、政憲はこれを受けて足利政知に戦闘継続の困難を唱えて和議の受け入れを迫り、幕府との取り纏めの交渉にもあたった。だが、これによって堀越公方の支配権は伊豆1国に限定されることになり、政知は政憲を深く恨んだ。更に政知が息子・茶々丸を廃嫡しようとした際にこれを強く諌めたことに激怒し、遂に政知は政憲に対して自害を命じられ、死去した。
 なお、政憲自害の正確な年次は不明であるが、経緯からみて太田道灌が主君・上杉定正によって殺害され、小鹿範満が伊勢盛時によって滅ぼされた時期と相前後することから何らかの関連性も考えられるといわれている。 

山本寺定長 山本寺景長

 山本寺上杉家は上杉氏庶流で、不動山城主。天正3年(1575年)の軍役帳によれば、上杉一門としては6番目の家格に位置している。
 長尾氏と争っていたが、上杉定実を傀儡の守護として擁する長尾晴景に従う。弘治元年(1555年)には、上杉謙信の家臣として川中島の戦いに従軍し、軍功を挙げた。その後、越中戦線に派遣され、元亀3年、一向一揆に包囲された越中火宮城救援のために出陣したが、神通川渡し場の戦いで敗れた。
 のちに上杉景虎(北条三郎)が謙信の養子となるとその傅役に任命された。その縁で、御館の乱では上杉景虎方に付いて敗北。居城を捨てて失踪した。家督は弟(息子ともいわれる)の景長(孝長)が継いだ。 

 山本寺定長の子、または弟ともいわれる。定長が御館の乱で景虎方について敗れて逐電すると、その跡を継いだ。
 天正10年(1582年)4月、上杉家の内乱につけこんだ織田氏の柴田勝家率いる北陸平定軍が、4万とも言われる規模で越後を目指して侵攻してくると、中条景泰や竹俣慶綱,吉江宗信らと共に越中国魚津城に篭城する。御館の乱で兵力を消耗し、信濃方面でも織田軍と対峙していた上杉家は魚津城へ援軍を向けられなかった。景勝は降伏を許可したが景長らは開城せず、籠城した末に自刃した。本能寺の変の翌日のことであった。
 没年は不明ながら若年であったとみられ、遺児は後に出家して林泉寺十八世・渓厳曹雪和尚となったという。
 弟(子とも)の藤三郎勝長は御館の乱で景虎方に与し、敗北後は閑居していたが、後に上杉家に帰参した。文禄3年(1594年)、直江兼続が伏見城の普請奉行をしていた頃に故あって改易された。寛永14年(1637年)に帰参し、300石(後に500石)で米沢藩高家となった。 

上杉持房 上杉教房
 幼少の頃に京都における犬懸上杉家の分家の当主を務める叔父の上杉氏朝(四条上杉家)の養子となっていたため、父が鎌倉公方・足利持氏の排斥に失敗し自刃した後も難を逃れ、命を長らえた。4代将軍・足利義持や6代将軍・足利義教に仕え、義教には特に重用されたようで、永享の乱とそれに続く永享12年(1440年)の結城合戦では、弟の教朝や斯波氏,土岐氏と共に幕府軍を率いて参加し、関東管領・上杉憲実や管領代行の上杉清方を支援した。  父・持房が上杉朝房の養子となっていた叔父(禅秀の弟)の上杉氏朝の養子となっていたため、持房・教房父子も在京の氏朝とともに京都の足利将軍家に仕えていた。享徳の乱が始まると、教房も同族(朝房の系統)である越後守護・上杉房定に従って息子・政藤とともに武蔵国にいた関東管領・上杉房顕の救援に向かう。だが、長禄3年(1459年)の太田庄の戦いにて古河公方・足利成氏の軍によって討たれた。