<藤原氏>北家 良門流

F432:藤原雅正  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良門 ― 藤原雅正 ― 藤原為時 F439:藤原為時

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藤原為時 紫式部藤原香子

 紀伝道を菅原文時に師事し文章生に挙げられる。蔵人所雑色,播磨権少掾を経て、貞元2年(977年)、東宮・師貞親王の御読書始において副侍読を務める。永観2年(984年)師貞親王が即位(花山天皇)すると式部丞・六位蔵人に任じられる。なお、紫式部の「式部」は為時の官職名に由来する。寛和2年(986年)花山天皇の退位に伴い官職を辞任する。
 一条朝に入ると約10年に亘って散位の状況となるが、長徳2年(996年)に従五位下・越前守に叙任されて越前国へ下向する。この際に娘・紫式部も連れて行ったとされる。寛弘8年(1011年)に越後守に任じられ息子の惟規も越後国に同行したが、惟規はまもなく現地で亡くなっている。また、長和3年(1014年)6月に任期を1年残しながら越後守を辞任し帰京、一説には直前に紫式部が亡くなったからではないかと言われている。
 長和4年(1015年)4月29日に三井寺にて出家。寛仁2年(1018年)には摂政・藤原頼通邸の屏風の料に詩を献じたが、その後の消息は不明である。
 『本朝麗藻』に漢詩作品13首が採録されており、大江匡衡は源為憲,源孝道らと並べて「凡位を越える詩人」と評した。『後拾遺和歌集』(3首)および『新古今和歌集』(1首)に和歌作品が入集している。
 藤原為時は長徳2年(996年)正月25日の除目で淡路守に任ぜられたが、3日後の28日に右大臣・藤原道長が参内して、俄に越前守に任ぜられたばかりの源国盛を停めて、藤原為時を淡路守から越前守に変更した。下国である淡路国に比べ越前国は大国であり、国司としての収入には雲泥の差がある。この任官のいきさつについて、『古事談』に以下の逸話がある。
 一条天皇の時代に源国盛が越前守に任ぜられた。藤原為時は「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」の句を女房(女官)を通して奏上、一条天皇はこれを見て食事も喉を通らず、寝所に入って泣いた。藤原道長が参内してこれを聞き、越前守に任じられた(おそらく道長の推挙)ばかりの源国盛を呼び越前守を辞退させて、代わりを藤原為時とする除目を行った。その時、越前守を譲らされた源国盛の家では嘆き悲しみ病気になってしまい、秋の除目で播磨守に任じられたが病は癒えずとうとう死んでしまった。なお、この越前守変更の理由について、『権記』や『小右記』によると、前年の長徳元年(995年)9月24日に隣国の若狭に宋の商人・朱仁聡が来着する事件が起こり、その後、若狭や越前に逗留していることから、その交渉相手として漢文の才を持つ為時が選ばれたとも言われている。 

 幼少期に母を亡くしたとされる。幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著したというのが通説、家集『紫式部集』が伝わっている。
 長徳2年(996年)に父・為時とともに父の任国・越前国へ下向し、娘時代の約2年間を過ごす。長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚し長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かずまもなく長保3年4月15日(1001年5月10日)宣孝と死別した。
 寛弘2年12月29日(1005年1月31日)、もしくは寛弘3年の同日(1006年1月26日)より、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。また女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である。
 紫式部の本名は不明であるが、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日(1007年2月19日)の条において掌侍になったとされる記事のある「藤原香子」とする角田文衛の説もある。ただし、この説は仮定を重ねている部分も多く推論の過程に誤りが含まれているといった批判もあり、その他にも、もし紫式部が「掌侍」という律令制に基づく公的な地位を有していたのなら勅撰集や系譜類に何らかの言及があると思えるのにそのような痕跡が全く見えないのはおかしいとする批判も根強くある。この説に関しての根本的否定は提出されておらず、しかしながら広く認められた説ともなっていないのが現状である。
 女房名は「藤式部」。現在一般的に使われている「紫式部」という呼称について、一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物「紫の上」に由来すると考えられている。
 紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚はこの一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説との関係で、『権記』の長徳3年(997年)8月17日条に現れる「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないかとする説が唱えられている。『尊卑分脈』において紫式部が藤原道長妾であるとの記述があることは古くからよく知られていたが、この記述については後世になって初めて現れたものであり、事実に基づくとは考えがたいとするのが一般的な受け取り方であるが、尊卑分脈の記述を完全に否定する根拠もなく、さらなる検討が必要とする主張もある。

藤原惟規 藤原惟通

 若くして文章生となり出世し、長保6年(1004年)正月に少内記を務めており、3月には位記の作成を命じられている。その後兵部丞,六位蔵人,式部丞を経て寛弘8年(1011年)に従五位下に叙爵。叙爵に伴い蔵人式部丞を離れ、越後守に任じられた父・為時とともに越後に赴任するが赴任先で卒去。
 幼少時に、姉妹の紫式部とともに為時について書(漢籍)を学んだが、惟規は暗誦することができず、紫式部は暗誦して見せたため、為時は式部が男でないことが残念だと思った、という有名な話がある。 

 寛仁3年(1019年)7月、常陸介に任ぜられ、翌寛仁4年(1020年)7月3日に任地で卒去した。享年不詳だが、40代前半だったと思われる。惟通が没した後も、彼の母(式部の継母)と妻子は帰京せずに常陸国にとどまった。これは常陸国に惟通とその一族が所有する荘園があったことを意味している。惟通が没した年の寛仁4年(1020年)閏12月26日、惟通の未亡人が平為幹に強姦されるという事件が起こった。惟通の母の訴えにより、為幹は逮捕されて身柄を拘束されたが、翌年には赦免されている。
藤原邦綱 藤原輔子

 五条大納言と号す。藤原北家良門流の系統に属する下級官人だったが、文章生から蔵人になる一方で藤原忠通の家司として頭角を現わす。和泉・越・伊予・播磨の受領を歴任して財力を蓄えるとともに成功により昇進し、永万元年(1165年)破格ともいえる蔵人頭に補される。
 4人の娘を六条,高倉,安徳の三天皇及び高倉天皇中宮・平徳子の乳母とし、豊かな財力を活用してその養育に力を尽くした。平家と親密な関係を深め白河殿盛子(関白・近衛基実室)の後見をつとめたが、仁安元年(1166年)に基実が没すると多くの摂関家領を盛子に相続させた。このことについて基実の弟・九条兼実は激しく非難を行っている。邦綱は権大納言まで昇進したが、邦綱の系統で公卿に列したのは平安時代前期の藤原兼輔以来のことであった。
 第宅も数多く有し、土御門東洞院第は後白河院の御所及び六条,高倉両天皇の里内裏として、五条第は高倉天皇の里内裏に用いられた。高倉上皇の第一の側近として厳島御幸や、遷都が計画された福原行幸に供奉し、高倉崩御に際しては素服を賜わった。公卿でこの恩遇にあずかったのは、邦綱の他には平宗盛,平時忠,藤原隆季,土御門通親の4人だけだった。一方で、邦綱は子息・清邦を清盛の養子にするなど、清盛からの信頼も篤かった。
 やがて清盛も没し、後を追うように治承5年(1181年)閏2月23日に死去した。訃報を聞いた兼実は「邦綱卿は卑賤より出ずと雖も其の心広大なり。天下の諸人貴賎を論ぜず、其の経営を以て偏に身の大事となす。ここに因りて衆人惜しまざるはなし」と評した。 

 『平家物語』には藤原伊実(惟実)の娘で、藤原邦綱の養女となったとあるが、『尊卑分脈』や『愚管抄』の記述から邦綱の実子と考えられている。平清盛の子・重衡の妻となり、後に安徳天皇の乳母をつとめ、従三位典侍,大納言典侍(大納言佐)と称した。
 寿永2年(1183年)に平家が源義仲に敗れると、重衡とともに都落ちした。寿永3年(1184年)2月、一ノ谷の戦いで平家は源範頼,義経に大敗し、重衡は捕えられてしまった。重衡は京へ送られ、後白河法皇は重衡の身柄と都落ちの際に平家が持ち去った三種の神器との交換を試みる。平重国が使者となって讃岐国屋島の平家の本営へ向かうことになり、重衡は罪人の身で書状は書けないので口頭で「旅の空でも、あなたは私を慰めました。こうして別れてしまってどんなに悲しいことだろうか『契は朽ちないもの』と言います。どうか、来世でも必ず逢いまみえましょう」と妻への伝言を頼み重国は涙ぐんだ。
 元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡し、輔子は他の女たちとともに入水するが助け上げられ捕虜となった。戦後は山城国日野に住む姉の邦子(大夫三位)の居所に隠棲した。
 重衡は南都大衆からひどく憎まれており、源頼朝に引き渡しを要求していた。同年6月に源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立し奈良へ送られた。罪人なので京には入らず、大津から山科を経てる醍醐路を通り、日野の近くに差しかかった時、重衡は護送の武士に「私には子がないので思い残すことはないのですが、この近くに妻がおりますので今一度対面して後生のことなど申し伝えておきたいのです」と最後の情けを願い、武士たちも涙してこれを許した。屋敷まで来て人に呼びにやらせると輔子は駆けつけて重衡と対面した。輔子は「夢かうつつか」と涙を流して招きいれ、重衡はこれまでのことを物語りして、出家して髪を残したいがそれも叶わないのでと額に垂れた髪をひと房噛み切って輔子に渡し形見とした。輔子は重衡を白の狩衣に着替えさせ、それまで着ていたものも形見とし、最後に別れの歌を交わした。重衡は「契りあれば来世にあってもまた逢えるでしょう」と言い残して、立ち去った。輔子は後を追おうとしたが叶うことではなく、大声で泣き伏し、その声を聞いて重衡は駒を進めることもできずに泣き、なまじ逢うべきではなかったかと後悔もした。重衡は東大寺の使者に引き渡され、木津川の川べりで斬首され、般若寺門前で梟首された。
 輔子は夫の亡骸を日野の地に持ち帰り、荼毘に付して供養した後、高野山に納めた。その後、自身も出家して重衡の菩提を弔い、大原寂光院の建礼門院(平徳子)に仕えた。『平家物語』の終末の部分、大原御幸の巻で建礼門院とともに薪と蕨を拾っているところを後白河法皇と出会っている。そして、最後の六道の巻で建礼門院が極楽往生を遂げる際に阿波内侍とともにこれを看取った。