紀伝道を菅原文時に師事し文章生に挙げられる。蔵人所雑色,播磨権少掾を経て、貞元2年(977年)、東宮・師貞親王の御読書始において副侍読を務める。永観2年(984年)師貞親王が即位(花山天皇)すると式部丞・六位蔵人に任じられる。なお、紫式部の「式部」は為時の官職名に由来する。寛和2年(986年)花山天皇の退位に伴い官職を辞任する。 一条朝に入ると約10年に亘って散位の状況となるが、長徳2年(996年)に従五位下・越前守に叙任されて越前国へ下向する。この際に娘・紫式部も連れて行ったとされる。寛弘8年(1011年)に越後守に任じられ息子の惟規も越後国に同行したが、惟規はまもなく現地で亡くなっている。また、長和3年(1014年)6月に任期を1年残しながら越後守を辞任し帰京、一説には直前に紫式部が亡くなったからではないかと言われている。 長和4年(1015年)4月29日に三井寺にて出家。寛仁2年(1018年)には摂政・藤原頼通邸の屏風の料に詩を献じたが、その後の消息は不明である。 『本朝麗藻』に漢詩作品13首が採録されており、大江匡衡は源為憲,源孝道らと並べて「凡位を越える詩人」と評した。『後拾遺和歌集』(3首)および『新古今和歌集』(1首)に和歌作品が入集している。 藤原為時は長徳2年(996年)正月25日の除目で淡路守に任ぜられたが、3日後の28日に右大臣・藤原道長が参内して、俄に越前守に任ぜられたばかりの源国盛を停めて、藤原為時を淡路守から越前守に変更した。下国である淡路国に比べ越前国は大国であり、国司としての収入には雲泥の差がある。この任官のいきさつについて、『古事談』に以下の逸話がある。 一条天皇の時代に源国盛が越前守に任ぜられた。藤原為時は「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」の句を女房(女官)を通して奏上、一条天皇はこれを見て食事も喉を通らず、寝所に入って泣いた。藤原道長が参内してこれを聞き、越前守に任じられた(おそらく道長の推挙)ばかりの源国盛を呼び越前守を辞退させて、代わりを藤原為時とする除目を行った。その時、越前守を譲らされた源国盛の家では嘆き悲しみ病気になってしまい、秋の除目で播磨守に任じられたが病は癒えずとうとう死んでしまった。なお、この越前守変更の理由について、『権記』や『小右記』によると、前年の長徳元年(995年)9月24日に隣国の若狭に宋の商人・朱仁聡が来着する事件が起こり、その後、若狭や越前に逗留していることから、その交渉相手として漢文の才を持つ為時が選ばれたとも言われている。
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幼少期に母を亡くしたとされる。幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著したというのが通説、家集『紫式部集』が伝わっている。 長徳2年(996年)に父・為時とともに父の任国・越前国へ下向し、娘時代の約2年間を過ごす。長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚し長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かずまもなく長保3年4月15日(1001年5月10日)宣孝と死別した。 寛弘2年12月29日(1005年1月31日)、もしくは寛弘3年の同日(1006年1月26日)より、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。また女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である。 紫式部の本名は不明であるが、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日(1007年2月19日)の条において掌侍になったとされる記事のある「藤原香子」とする角田文衛の説もある。ただし、この説は仮定を重ねている部分も多く推論の過程に誤りが含まれているといった批判もあり、その他にも、もし紫式部が「掌侍」という律令制に基づく公的な地位を有していたのなら勅撰集や系譜類に何らかの言及があると思えるのにそのような痕跡が全く見えないのはおかしいとする批判も根強くある。この説に関しての根本的否定は提出されておらず、しかしながら広く認められた説ともなっていないのが現状である。 女房名は「藤式部」。現在一般的に使われている「紫式部」という呼称について、一般的には「紫」の称は『源氏物語』または特にその作中人物「紫の上」に由来すると考えられている。 紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚はこの一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説との関係で、『権記』の長徳3年(997年)8月17日条に現れる「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないかとする説が唱えられている。『尊卑分脈』において紫式部が藤原道長妾であるとの記述があることは古くからよく知られていたが、この記述については後世になって初めて現れたものであり、事実に基づくとは考えがたいとするのが一般的な受け取り方であるが、尊卑分脈の記述を完全に否定する根拠もなく、さらなる検討が必要とする主張もある。
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