平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての天台宗の僧。蓮行房・安居院法印とも号する。娘に勅撰歌人の八条院高倉がいる。 珍兼に師事して天台教学を学び、初め比叡山北谷竹林院に、その後は竹林院の里房である安居院に住した。1159年(平治元年)におきた平治の乱では下野国に配流となったが、まもなく帰京している。1174年(承安4年)には最勝講で祈雨法を修して権大僧都に任じられ、1177年(治承元年)には明雲から一心三観の血脈を相承した。多くの法会で導師をつとめ、説法唱導の名手といわれ、安居院流唱導の祖といわれている。 『玉葉』によると、二条天皇の中宮であった姝子内親王と密通したとされ、弟子の海恵は澄憲と姝子内親王の間の子であるという。
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