<藤原氏>南家

F034:狩野正信

 藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 二階堂行政 ― 二階堂行義 ― 狩野正信 ― 狩野州信

F035:狩野州信


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狩野州信(永徳) 狩野光信

 天文12年(1543年)、松栄の長男として生まれる。10歳(数え年)の永徳は天文21年1月29日(1552年2月23日)に狩野法眼(元信に連れられて将軍・足利義輝に拝謁している。
 永徳の代表作の1つと見なされている上杉本『洛中洛外図屏風』は永禄8年(1565年)、永徳23歳の作品である。この屏風は天正2年(1574年)、織田信長から上杉謙信に贈られている。また五摂家の筆頭である近衞家とも関係が深く、永禄10~11年(1567~68年)には近衛前久邸の障壁画を描いている。
 天正4~7年(1576~79年)には安土城に障壁画を描き、天正11年(1583年)には大坂城、天正14年(1586年)には聚楽第の障壁画を担当するなど信長や豊臣秀吉をはじめとする権力者に重く用いられた。
 天正17年(1589年)には後陽成天皇の内裏の障壁画を担当し、天正18年(1590年)には八条宮家の障壁画を描いた。同年9月、永徳は東福寺法堂の天井画の龍図を制作中に病気になり、ほどなく死去した。享年48(満47歳没)。死因は、過労死ではなかったかともいわれている。なお、東福寺法堂の天井画は永徳の下絵を元に弟子の狩野山楽が完成させたが現存しない。 

 山城国で生まれる。はじめ織田信長に仕え、父・永徳とともに安土城の障壁画などを描く。その後、豊臣秀吉に仕えた。天正18年(1590年)に父が没した後、山城国大原に知行100石を拝領、狩野派の指導者となる。天正20年(1592年)肥後国名護屋城を制作。その後も豊臣家の画用を務め多忙であった。慶長8年(1603年)、二条城に大内裏図を作成している。慶長11年(1606年)、江戸幕府の命で江戸へ下り、江戸城殿舎に障壁画を描く。しかし、慶長13年(1608年)、帰京途中で桑名で客死してしまう。享年44歳、または48歳。
 父・永徳の豪壮な大画様式とは対照的な理知的で穏やかな作風は、当時の戦国武将たちの好みとは合わなかったらしく、「下手右京」と酷評を受け近世を通じて評価が低かった。しかし、祖父の狩野松栄や曾祖父・狩野元信の画風や中世の大和絵を取り入れ、自然な奥行きのある構成や繊細な形姿の樹木・金雲などを描き、特に花鳥画に優れる。また、永徳時代には排斥の対象ですらあった長谷川派との親和を図り、新たな画題である風俗画に取り組むことで、永徳様式からの自立と新たな絵画領域の開拓を目指した。こうした光信の画業を継承する狩野長信や狩野興以,狩野甚之丞のような門人もおり、光信の画風は永徳様式から甥の探幽を中心とする江戸狩野様式への橋渡しする役割を果たしたといえる。

狩野貞信 狩野安信

 京都出身。慶長13年(1608年)に父・光信が亡くなると、叔父・狩野孝信の後見で育つ。慶長19年(1614年)の名古屋城障壁画制作に参加。若年ながら狩野家嫡流という血統の高さゆえ、本丸御殿表書院上段之間という最も格式の高い部屋を担当したとする説が有力である。
 元和5年(1619年)に孝信も亡くなると、同年の内裏女御御所や、翌年から翌々年にかけての内裏小御所御亭(現在の妙心寺麟祥院障壁画)の障壁画制作に、狩野家総領として参加した。しかし若くして病に倒れ、病床で後事を案じながら江戸で亡くなった。享年27。墓所は池上本門寺。狩野宗家の地位は、貞信が死の床にある際、狩野長信や狩野吉信,狩野甚之丞らの一族の重鎮が話し合い、従弟に当たる狩野安信が継いだ。若くして亡くなったため、現在確認されている作品は極めて少ない。その僅かな作品から画風を推測すると、水墨画においては狩野元信以来の様式を守り、その画法を脱するまでには至らなかった。一方、金碧画では父・光信の細部描写を継承しつつそれを更に繊細化、筆勢よりも彩色に重きを置き、一層和様化を推し進めた。また、名古屋城上段之間に見られるモチーフの整理による画面の平面化、画面の枠を意識した構図などは、後の狩野探幽(従弟で安信の兄)に引き継がれる要素が見られる。

 探幽・尚信は兄。幼少期は父に頼まれた狩野興以に2人の兄と共に絵の教育を受けたという。元和9年(1623年)、危篤に陥った宗家当主の狩野貞信には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる狩野長信と狩野吉信の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として惣領家を嗣ぐことが決められた。伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。探幽のいじめを受ける中で画技の研鑽に努め、寛文2年(1662年)には法眼に叙された。また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられた狩野益信や甥の狩野常信に娘を嫁がせ、探幽に対抗しつつ狩野家の結束を固める策をとっている。延宝2年(1674年)の内裏造営では、筆頭絵師にのみ描くのを許された賢聖障子を描き、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。しかし、その4年後に息子の時信に先立たれてしまう。この頃から安信は、武者絵を描くためにわざわざ山鹿素行を訪れ、武者装束や武器などの有職故実の教えを受け、朝鮮進物屏風の制作にあたっても、素行を訪ね、様々な質問をしている。
 絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の延宝8年(1680年)に弟子の狩野昌運に筆記させた『画道要訣』である。この中で安信は、優れた絵画には、天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている。ただし、安信は質画の良さまで否定したわけではなく、さらに「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。そうした言葉通り、粉本に依拠した丁寧でまじめな作品を残している。

狩野立信 狩野孝信

 江戸木挽町に生まれる。本名は立信、幼名は熊五郎、晴雲斎とも号した。狩野宗家中橋狩野家・狩野祐清邦信の養子となり、後に宗家中橋家第15代となった。嘉永元年(1848年)幕府御用絵師となり、安政4年(1857年)法眼に除す。徳川家斉から徳川家茂までの4代の将軍に仕え、江戸城の障壁画や屏風絵を多く手がけた。
 明治維新後も皇居造営の際に、皇后宮御殿御杉戸や小襖に多くの作品を描く。明治11年(1878年)に来日し日本美術の研究を始めたアーネスト・フェノロサに、古画の研究と鑑定法を教授する。甥の狩野友信と連書で、フェノロサに一代狩野姓を許し「狩野永探理信」の名を与えるなど、日本における美術史学の形成にも間接的に寄与した。明治17年(1884年)の第二回内国絵画共進会には審査員として「虎渓三笑図」を出品、銀賞を受ける。鑑画会には古画の鑑定委員として設立当初から参加しているが、フェノロサの関心が新画工の育成に移ると次第に離れていく。明治20年(1887年)明治宮殿杉戸絵を揮毫し、同22年(1889年)臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛となる。明治23年(1890年)帝室技芸員となり、「狩野家鑑定法ニ就テ」を著したが、翌年77歳で亡くなった。墓所は池上本門寺。弟子に、養子となり中橋狩野家16代当主を継いだ狩野忠信、鑑画会の中心画家として活躍した小林永濯。また、川辺御楯も最初永悳に学んでいる。

 京都出身。織田信長の家臣・佐々成政の娘を妻に迎えたと伝える。天正18年(1590年)20歳の時、父・永徳が亡くなると兄・光信を補佐したが、光信が慶長13年(1608年)に亡くなると、その遺児狩野貞信を当主に据えつつ事実上狩野派の中心となって活躍した。孝信は狩野派の支持層である武士階級のみならず、朝廷の後援を得て禁裏絵師となり、右近将監(従六位)に叙し絵所預に任じられた。慶長18年(1613年)の内裏造営では総帥として活躍し、この時描いた現存最古の「賢聖障子」等は現在仁和寺に伝わっており、孝信の基準作とされる。
 この時期は政権が豊臣家から徳川家に移ろうとする過渡期で、孝信あるいはその周辺の人物は、狩野派の本拠地で朝廷のある京都は孝信自身があたり、大阪の豊臣氏には豊臣と縁故の深い門人の狩野山楽や狩野内膳を配置、更に宗家の貞信と自身の長男・探幽を江戸幕府へ売り込み、権力がどこに移っても狩野派が生き残るよう万全を期した。元和4年(1618年)48歳で没す。墓は京都妙覚寺。
 画風は父・永徳譲りの力強い筆法に加え、兄・光信の華麗さ・温和さを折衷し、後の探幽様式の基礎的な線質を準備した画家であったといえる。

狩野守信(探幽) 狩野守道(探信)

 慶長17年(1612年)、駿府で徳川家康に謁見し、元和3年(1617年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。江戸城,二条城,名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺,妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作した。山水,人物,花鳥など作域は幅広い。
 元和9年(1623年)、狩野宗家を嫡流・貞信の養子として末弟の安信に継がせて、自身は鍛冶橋狩野家を興した。探幽には嗣子となる男子がなかったため、刀剣金工家・後藤立乗の息子・益信(洞雲)を養子にしていた。その後、50歳を過ぎてから実子・守政が生まれたため、守政が鍛冶橋家を継いだ。しかし、探幽の直系である鍛冶橋狩野家から有能な絵師が輩出されることは、6代後の子孫である狩野探信守道とその弟子・沖一峨を僅かな例外として殆どなかった。
 延宝2年(1674年)死去。享年73(満72歳没)。墓所は池上本門寺。
 若年時は永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、墨線の肥痩を使い分け、枠を意識し余白をたっぷりと取った瀟洒淡泊、端麗で詩情豊かな画風を生み出した。この画法は掛け軸等の小作品でも生かされ、その中に彼の芸術的真骨頂を見いだすのも可能である。その一方、大和絵の学習も努め、初期の作品は漢画の雄渾な作画精神が抜け切れていないが、次第に大和絵の柔和さを身に付け、樹木や建物はやや漢画風を残し、人物や土波は大和絵風に徹した「新やまと絵」と言える作品も残している。探幽は写生も多く残し、尾形光琳がそれを模写しており、また後の博物画の先駆と言える。
 探幽の画風は後の狩野派の絵師たちに大きな影響を与えたが、彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちが模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となった。すでに晩年の探幽自身の絵にその兆候が見られる。近代に入ると、封建的画壇の弊害を作った張本人とされ、不当に低い評価を与えられていた。しかし近年、その真価が再評価されている。

 江戸幕府御用絵師の鍛冶橋狩野家の7代目。先祖に当たる鍛冶橋狩野家2代目の狩野探信守政と区別するため、探信守道とも呼ばれる。
 寛政5年(1793年)7月、部屋住みながら御目見え。寛政8年(1796年)父の隠居に伴い家督を継ぐ。この頃の鍛冶橋狩野家は、同じ奥絵師の木挽町狩野家や中橋狩野家と比べて明らかに劣勢であったが、文政8年(1825年)法眼に叙され、亡くなる前年の天保5年(1834年)御医師並になる。享年51。弟子に沖一峨,目賀多信済、深川水場狩野家の了承賢信,探水守常など。
 探信守道は家を再興するため、祖先の狩野探幽に学び、その没骨的彩色法を復活させようとした。一方、江戸時代の狩野派が忌避していた風俗画も積極的に手がけ、浮世絵風の作品も残している。そのため現存する探信守道の作品は専ら大和絵で、僅かな水墨画の遺品も古画の模写が殆どである。 

狩野益信 狩野尚信

 狩野探幽の養子で、江戸幕府御用絵師の中で奥絵師4家に次ぐ家格を持つ表絵師筆頭(御坊主格)駿河台狩野家の祖。狩野洞雲とも言われる。彫金家・後藤勘兵衛家の後藤立乗の長子として生まれる。幼少時に書を松花堂昭乗に学び、画を好んだ。その画技を見込まれて寛永12年(1635年)、11歳で探幽の養子となる。後藤家と狩野家とは共に幕府の御用を務め、日蓮宗信者といった共通点を持ち、狩野元信の代に遡ると言われるほど古くから繋がりがあったという。探幽の弟・狩野安信に可愛がられ、その娘を妻とし、3代将軍・徳川家光にも寵愛された。しかし探幽に実子・探信,探雪ができると、万治2年(1659年)の35歳の時に南光坊天海の紹介で別家し、寛文7年(1667年)に新たに駿河台に屋敷を拝領し、駿河台狩野家を興こす。天和2年(1682年)には新たに20人扶持を得て、他の表絵師の5人扶持(山下狩野家10人扶持を除く)より高い格式を得た。また同年、11歳の養子であり探幽の実子で勘当されていた五右衛門(勘当の理由は不明)の子狩野福信がお目見えしている。
 寛文5年(1665年)9月、益信の絵を見た隠元隆琦から絶賛され、「洞雲」の号を与えられる。晩年の元禄4年(1691年)には湯島聖殿に「七十二賢及先儒ノ像」を描き、住吉具慶,北村季吟らと共に法眼に叙されたが、3年後の元禄7年(1694年)に没した。享年70。墓所は護国寺(後に多磨霊園に改葬)。子が無かったため、跡は福信に継がせた。生来生真面目な性格だったらしく、養子時代には偉大な探幽の跡取りとして苦悩する様子が見える史料が残る。

 京都に生まれる。元和元年(1623年)徳川家光上洛の際、17歳でお目見えし、家光から絵事を申しつけられた。兄・探幽に続き、寛永7年(1630年)江戸に召され、竹川町に屋敷を拝領し、幕府の御用絵師となる。探幽の画風を素早く習得し、二条城、聖衆来迎寺、知恩院障壁画の制作では兄と共に参加し、その画業を補佐した。その後、探幽の画風から一歩踏み出し、探幽以上に湿潤な墨調をもち、余白や構図にも探幽を超える大胆さをもつ作品が残っている。大和絵の白描技法を水墨画の人物描写に応用し、漢画の和様化に寄与した。近衛家熙は『槐記』のなかで、古今に超絶したものだと高く評価している。一方、金碧障壁画の着色作品は、対象を単純化しようとする傾向が見られ、探幽が金碧画の中にも和様化を目指したのに対し、尚信は装飾化へ向かおうとしたようである。
 私生活においては、ふらりと京都に旅行に出て小堀遠州を訪ねたり、実際は病死したと伝えられるが、失踪して中国に行こうとした、あるいは魚釣りに出かけて溺死したという逸話が作られるなど、飄々と生きた趣味の自由人といった人柄を伝えている。木村探元著の『三暁庵雑志』によると、不出来な作品は破り捨てていたため、寡作であったという。実際、現存する尚信の作品は多くはない。江戸時代には探幽と同じくらい人気があり、反面作品数は少ないため、しばしば贋作が作られるほどだった。

狩野常信 狩野典信

 京都出身。慶安3年(1650年)4月に父の尚信が没した後、15歳で木挽町狩野家を継いだ。同年12月剃髪、養朴と号し3代将軍・徳川家光にお目見え、後に徳川家綱の御用を勤めた。父の没後は伯父の狩野探幽に画を学んだとされる。古来より狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきたが、狩野派内での地位が上がるのは遅かった。これは叔父で妻の父でもある狩野安信に疎んじられたからだと言われる。これは、結婚・養子縁組で探幽・安信兄弟と繋がりができた狩野益信と立場を比較され、しばしば狩野派内部での序列が彼と入れ替わっているからとされる。益信と常信の画家の地位は状況により入れ替わっている。
 中院通茂に和歌を学び、幕末に著された『古画備考』や『文翰雑編』には多くの歌が収録されている。また、徳川光圀の愛顧を得て、近衛家熙の言行を記録した『槐記』には、しばしば近衛家の画事を勤めた記事が載る。その一方で、探幽同様に古画の学習に努め、後に「常信縮図」と呼ばれる膨大な古画鑑定控え、粉本・画稿を残した。印章にも凝り、その数は150夥にも及んだという。そうした甲斐もあってか、天和2年(1682年)に20人扶持を拝領、同年、朝鮮通信使に贈る屏風二双を制作、更に訳官・洪世泰の肖像画を描いた。洪世泰は常信の画を「絶代奇筆」と最大限の賛辞を送った。宝永元年(1704年)10月12日、孔子廟に七十二賢像を描いた功で法眼に叙される。同5年(1708年)内裏造営で賢聖障子を描き、翌6年(1709年)11月3日に前年の画事と江戸城修理の功績を賞され中務卿法印位を得て、翌年12月19日には200石を加増された。正徳元年(1711年)の通信使来日の際には、前より増えた屏風三双を手掛けた。墓所は池上本門寺。

 江戸時代中期の竹川町家、後に木挽町家狩野派6代目の絵師である。号は栄川,栄川院,白玉斎。白玉斎の号は一羽の雀が典信の部屋に飛び込み、置いてあった白玉を硯の中に落として飛び去ったという逸話に由来するという。
 僅か2歳で父・古信と浜町狩野家から養子入りし養父となっていた受川玄信を相次いで亡くし、以後母に育てられる。寛保3年(1743年)14歳の時、将軍・徳川吉宗にお目見え、吉宗は幼い典信を特別扱いして可愛がったという。宝暦12年(1762年)33歳で法眼中務卿、翌年奥絵師を仰せつけられ、安永2年(1773年)には表御医師並となって、竹川町家は典信の代で初めて奥絵師となった。
 典信は絵を好んだ徳川家治の寵愛深く、子の惟信や中橋狩野家の永徳高信と共に日々傍らに仕えたという。安永6年(1777年)、通常新たな屋敷を拝領すれば、それまでの土地は返却するのが習わしであるのに、従来の竹川町の屋敷はそのままに木挽町に新たな土地を拝領した。以後、時代を遡って狩野尚信の家系は、木挽町狩野家と呼ばれる。木挽町の屋敷は田沼意次の旧邸を分与されたものであり、ここから典信と意次は互いに裏門から往来し、意次の密議は常に典信の屋敷で計られたという伝承が生まれた。新宅には他の狩野家より大きな画塾が設けられ、塾生の数も常に5,60人を下らなかったという。
 安永9年(1780年)に法印となり栄川院を名乗る。寛政2年(1790年)新造御所の障壁画制作を主導するさなか、賢聖障子の下絵を完成させた直後亡くなった。この賢聖障子絵は典信と住吉広行の共同制作として記録された。木挽町狩野家の菩提寺・池上本門寺に残る顕彰筆塚には、寡黙、真面目、清廉な人柄だったと記されている。
 門人のなかに、後に浮世絵師になった鳥文斎栄之などがいた。また、弟子に狩野白珪斎という絵師がおり、この白珪斎の弟子が渓斎英泉だったという。 

狩野栄信 狩野養信
 木挽町家狩野派8代目の絵師である。江戸に生まれる。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)に父・惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子・養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。しかし、画才には恵まれたらしく、現存する作品には秀作・力作が多い。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖・狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代の養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。 

 伊川院栄信の長男として江戸で生まれる。母は稲葉丹後守家来の松尾多宮直常の娘。15歳で初めて江戸城に出仕した。その前日から没する前日までの36年間にわたる『公用日記』56冊には、御用絵師の業務やそれ以外の日常を知ることが出来る。
 1819年(文政2年)に法眼の称号を得、1828年(文政11年)には父の死を受けて家督を相続し、木挽町家狩野派9代目となる。1834年(天保5年)、法印に叙せられた。1838~39年(天保9~10年)には、江戸城西の丸御殿、1844~45年(天保15~弘化2年)には本丸御殿の障壁画再建の指揮をとった。障壁画は現存しないが、上述の『公用日記』に淡彩下図が残る。
 弟子に明治期の日本画家である狩野芳崖と橋本雅邦がいる。橋本雅邦は、その父・橋本養邦が狩野養信の高弟であったのに加え、雅邦自身、木挽町狩野家の邸内で生を受けている。幼少期は父から狩野派を学んで育ち、わずかに最後の1ヶ月のみながら最晩年の養信に師事してもいる。芳崖と雅邦は同日の入門であり、実質の師匠は養信の子・雅信であったと考えられている。他の弟子に、阿波藩御用絵師の中山養福,松代藩絵師の三村晴山,弘前藩の御用絵師の新井晴峰,糺晴岱,狩野養長,岩崎信盈,林伊教などがいる。
 2003年(平成15年)、東京都大田区の池上本門寺にある養信の墓が移転される際、遺骨が掘り出され、頭蓋骨から生前の頭部復元模型が制作された。この模型は、池上本門寺に保管されている。

狩野雅信 狩野岑信

 代々幕府の奥絵師を勤めた木挽町狩野家の10代目で、最後の当主。1844年(天保15年)、父と共に火災で消失した江戸城本丸御殿障壁画制作に従事した。翌1845年(弘化2年)法眼に叙せられ、1861年(文久元年)には法印に上った。14代将軍・徳川家茂の寵愛を受け、江戸北町奉行を務めた鍋島直孝の娘を娶り、1863年(文久3年)の家茂上洛にも付き従っている。しかし戊辰戦争時には、旧幕府軍から江戸脱走を勧誘されるも雅信はそれに応じず、その時の書状を焼き捨て新政府へ配慮している。
 明治維新に際し、江戸狩野の奥絵師四家のうち鍛冶橋狩野家は徳川宗家に従い、残り三家は1870年(明治3年)御暇を仰せ付けられ平民になったという。1869年(明治2年)夏には延遼館障壁画を、狩野永悳,狩野董川らと共に制作する。一方、朝臣化した幕臣として東京府内の警備・治安維持の仕事を割り当てられ、身分は武士ではあっても武芸を殆ど習得していない雅信らはこれを免除するよう願い出た嘆願書が残っている。
 1872年(明治5年)に火事で木挽町の家宅が焼け、更に敷地も上地となったため、飯田町にある妻の実家鍋島家に住む。軍部から製図制作を勧められたが、「画家たる者何ぞ製図を事とせむや」と御用絵師の矜持からこれを固辞し、晩年は悠々自適の生活を送ったとされる。しかし新政府の仕事を全く受けなかったのではなく、博覧会の事務局に雇われている。1872年(明治5年)には博物局編『古人肖像集』の挿絵を手がけ、1876年(明治9年)のフィラデルフィア万国博覧会や、翌年の第1回内国勧業博覧会に関わる。1878年(明治11年)のパリ万国博覧会では手当15円を支給され、翌年には大蔵省から月給20円で雇われている。他にも外貨を得るため、外国に日本の物産製品を紹介する解説書『日本製品図説 錦画』(高雲外編、明治10年刊)の挿絵を担当している。しかし、やはり生活は苦しかったらしく、木挽町狩野家の知行地のあった樋ノ口村の組頭に、米や下肥代金の援助を頼む手紙が残っている。
 弟子に、狩野芳崖,橋本雅邦,木村立嶽,狩野友信,結城正明,青野桑州,柳田龍雪などがいる。芳崖から「師は絵を知り給わず」と吐き捨てられたという逸話や、後の岡倉覚三(天心)から厳しく評価されるなど、画才は凡庸だったとされることが多い。確かに水墨画を中心にそう評価されても仕方がない作品もあるが、着色画には豊かな色彩と細密な描写に見所ある作品も残っている。

 元禄元年(1698年)、後に6代将軍となる徳川家宣に召し出され、同3年(1700年)15人扶持が与えられる。宝暦元年(1704年)家宣の西の丸入場に従い、宝暦4年(1707年)11月29日松本性を賜って松本友盛と名を改めた。この時、家宣自ら松平姓を与えようとしたが、岑信が憚って辞退したため松本姓を与えたという。更に翌年、家宣の将軍宣下に伴い奥医師並、200俵7人扶持に加増、別家を許されて浜町狩野家を興し、更に狩野宗家の中橋狩野家を凌いで狩野総上席を与えられた。なお、御用絵師が奥医師並の職格を与えられたのは、住吉具慶と岑信のみである。しかし、家宣の将軍就任を見ずに宝永5年(1708年)12月3日、父・常信に先立って亡くなった。享年47。墓所は池上本門寺。家宣の御用を多く務めたと推測されるが、現在確認されている作品数は20点に満たない。弟子に伊予松山藩御用絵師の豊田随園など。 
狩野友信 狩野松伯

 嘉永6年(1854年)3月、血縁上は従兄弟に当たる狩野勝川院雅信の絵所に入り、7年間修行する。同門に、狩野芳崖,橋本雅邦,結城正明らがいる。安政6年(1859年)12月から父の見習いとなり、将軍・家茂にお目見え、奥絵師に任ぜられ二人扶持となる。以後、しばしば幕府の絵画御用を務めた。
 文久3年(1863年)開成所へ洋画修行のため2年間通い、更に慶応元年(1865年)川上冬崖について3年間、ワーグマンに2年間、油画と水彩画を学ぶ。これらの画塾の洋画教授法は未だ熟れてはいなかったが、この7年間の洋画修行により、和洋両方の画法を身に付ける。
 明治3年(1870年)9月、民部省より準十五等出仕図籍掛となり、地図の作成にあたった。同5年(1872年)からは大蔵省租税寮に出仕、翌年4月開成学校勤務となり、11月からは外国語学校も兼務する。明治8年(1875年)2月から東京大学理学部助手となり、明治14年(1881年)東京大学予備門の助教諭となって、画学教師を務めた。この頃、フェノロサと知り合い、フェノロサに狩野派の画法を講じるだけでなく、狩野永悳や狩野芳崖を紹介するなど、フェノロサの日本美術研究の良き協力者となった。
 明治17年(1884年)2月に結成されたの鑑画会では、おそらく創立会員7人のうちに入っていたと考えられる。フェノロサが鑑画会の主導権を握った5月から、木挽町にあった起立商工会社の事務所で、フェノロサ,永悳,山名貫義と共に鑑定委員として働いた。翌18年9月の第一回鑑画会に「松下人物」「梅下野鶏」「羅漢」を出品、四等賞を得て金五円を授与された。同年暮れ、文部省御用掛となり、狩野芳崖と共に美術学校設立運動にも挺身する。
 明治20年(1887年)10月、図画取調掛が東京美術学校と改称されると、図画教授方嘱託となり、新設の美術学校の運営に尽力した。明治22年(1889年)東京美術学校雇、同24年8月には助教授となり、明治29年(1896年)4月まで教鞭を取り、大村西崖,白井雨山,白濱徴,島田佳矣,岡本勝元らを育てた。その一方で、外国人にも狩野派の骨法を教えたという。
 大学を退官した後は名利を絶ち、のんびりと筆硯に親しむ悠々自適の生活を送る。明治45年(1812年)6月、門人知人ら200名余りの発起で、古希の祝賀園遊会が盛大に行われたが、その1ヶ月後に水戸を漫遊中脳溢血により客死した。 

 はじめ直木与市と名のり、雪川と号した。『若木集』に宗泉の父とある。
 松伯については幕末に編纂された画家事典『古画備考』に、数種の系図を掲げて紹介されている。生没年は不詳であるが、68歳で亡くなったことが分かっている。織田信定(織田信長の祖父)の子の次男として生まれたとする系図もあるが真偽のほどは不明。絵は狩野永徳の父である狩野松栄に学んでおり、松伯の名も師の名前から付けられたものと思われる。狩野の姓を免許されて法橋の位も授けられたといい、一説に永徳の養子となったとも伝えることから、松伯が師から厚く信頼され、かつ技量にも秀でた絵師であったことをうかがわる。
 師没後はその子で永徳の弟でもある長信を頼って江戸に下り、最後は越前で没している。松伯の活動については不明な点が多く、作品も現在確認されているものは皆無である。わずかに後世の模本で「虎渓三笑図」(東京国立博物館蔵)が、同様に與市を名乗った子の作である可能性を含めて知られるに過ぎない。 また記録上では、慶長10年(1605年)に狩野内膳が公家の舟橋秀賢に、平家物語図制作に際して図様の相談をし、その使者として秀賢のもとに狩野與一が赴いたことが彼の日記に記されるほか、寛永10年(1633年)に喜多院(埼玉県川越市)の書院に「鶴亀天台山」を描いたことが寺の文書に見えるのみである。 前者の狩野内膳は、松伯同様、狩野松栄に師事していた。つまり松伯とは兄弟弟子の間柄で、内膳の下でその制作を補助する関係であったと思われる。しかも、内膳は一説に岩佐又兵衛の師であったといわれる人物である。内膳の父は又兵衛の父とされる武将・荒木村重の家臣で、かつ両者は「豊国祭礼図屏風」という同工異曲的な作品を残している。もし、内膳と又兵衛が師弟関係にあったならば、当然内膳の下にいた松伯と又兵衛も既知の仲であったはずである。松伯は越前で没し、その子・直利も又兵衛同様、3代藩主・忠昌に仕えている。松伯の家系はその後も続き、一つは2代藩主・忠直の血統である津山松平藩の御用絵師となり、一つは福井藩御用絵師の奈須家へと受け継がれていく。 

狩野延信(芳崖) 狩野光頼(山楽)

 近代日本画の父と称される画家のひとり。盟友たる橋本雅邦と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎,菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。
 文政11年(1828年)、長府印内で、長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代に狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代・洞晴のとき長府藩御用絵師となり、5代・察信の時代に長府に移り住んだ。芳崖はその8代目に当たる。
 芳崖も幼い頃から、父の跡を継ぐべく画道に励んだ。少年時代の作品は10点近く現存しており、早熟の才能を示している。弘化3年(1846年)19歳で、父も学んだ木挽町狩野家に入門、狩野雅信に学ぶ。嘉永3年(1850年)には弟子頭となり、同年同日入門し生涯の友になる橋本雅邦と共に「竜虎」「勝川院の二神足」と称された。画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられる。この頃、父の修行仲間で当時画塾で顧問役を務めていた三村晴山の紹介により、近くで塾を開いていた佐久間象山と出会い、その薫陶を受ける。芳崖は象山を慕うあまり、その書風も真似したといわれる。
 その後、藩から父とは別に30石の禄を給され、御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送る。安政4年(1857年)近郷の医師の娘よしと結婚。幕末の動乱期、禅の「禅の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という教えから、法外と音通の「芳崖」の号を使い始めた伝えられる。
 明治維新後、困窮し日給30銭で陶磁器の下絵を描くなどして糊口をしのいだ。明治12年(1879年)芳崖の窮状を見かねた雅邦や同門の木村立嶽の紹介で島津家雇となり、月給20円を支給されて3年かけて「犬追物図」を制作する。
 芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサとの出会いが重要であった。日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。鮮やかな西洋顔料を取り入れた「仁王捉鬼図」は鑑画会大会で一等となり、たちまち、注文をさばききれないほどの人気画家となった。フェノロサは、芳崖の仁王捉鬼図を当時の総理・伊藤博文に見せて日本画の可能性を示し、東京美術学校(後の東京藝術大学)設立の契機とした。
 フェノロサと知り合った明治15年(1882年)、肺を病み、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。芳崖は東京美術学校の教官に任命されたが、「悲母観音」を描き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。享年61。墓所は東京谷中の長安寺。芳崖の父の菩提寺である下関の覚苑寺には、芳崖の座像がある。
 弟子に、芳崖四天王と呼ばれた歴史画を良くした岡倉秋水(岡倉天心の甥),山水画に特色がある本多天城,「仏画師」と称した高屋肖哲,草花図を得意とした岡不崩など。

 浅井長政の家臣・木村永光の子・光頼として近江国蒲生郡に生まれる。父・永光は余技として狩野元信に絵を習っていた。狩野一族ではないが、狩野永徳の門下に入り改姓、永徳亡き後は豊臣秀吉・秀頼父子の2代に渡り絵師として豊臣氏に仕えた。そうした経歴が災いして窮地に陥るも九条幸家らの助命嘆願で救われ、彼を中心とする関係者に作品を提供する一方で江戸幕府からの注文もこなし、障壁画・屏風に永徳風の作品を残した。江戸へ移った狩野派と疎遠になり、京都に留まった山楽の子孫は「京狩野」と称された。
 浅井氏が織田信長によって滅ぼされてからは豊臣秀吉に仕え、秀吉の命により狩野永徳の養子となり狩野姓を名乗る。山楽はこの時、武士の身分を捨てることを躊躇し多くの役職を務めたという。天正年間には、安土城障壁画や正親町院御所障壁画の作製に加わる。永徳が東福寺法堂天井画の制作中に病で倒れると、山楽が引き継いで完成させた。このことから、永徳の後継者として期待されていたことが伺える(天井画は明治時代に焼失し現存しない)。以後、豊臣家の関係の諸作事に関わり、大阪に留まって制作に励んだ。豊臣氏には淀殿をはじめとして浅井氏旧臣が多く、山楽が重く用いられたのも、浅井氏に縁のある山楽の出自が理由だと思われる。慶長末年には大覚寺宸殿障壁画制作に腕をふるっている。
 あまりに豊臣家と深く関わったため、大坂城落城後、豊臣方の残党として嫌疑をかけられてしまい、男山八幡宮の松花堂昭乗の元に身を隠した。その後、九条家の尽力もあり、山楽は武士ではなく一画工であるとして恩赦を受け助命される。九条家との繋がりは以後代々受け継がれ、幕末まで続くことになる。駿府の家康に拝謁、京都に戻り徳川秀忠の依頼で四天王寺の聖徳太子絵伝壁画などを制作した。長男・光教(孝)が早世したため、門人・狩野山雪を後継者とした。晩年は筆力の衰えを隠せず、弟子に代作させることもしばしばであった。
 永徳様式を継承した大画様式に優れた才能を魅せ、雄大な構図を持つ作品が多い。それらは永徳画に比べると装飾性豊かでゆったりとした構成を取る。こうした方向性は、後の絵師達に強い影響を与えた。 

狩野山雪 狩野永納

 九州肥前国に生まれる。実父は肥前国の千賀道元。母は松浦氏出身。父に従い大阪に移り住むが、慶長10年(1605年)に父と死に別れる。彦三(幼名)に画才があることを知っていたらしい叔父の僧は、当時、豊臣氏の絵師として活躍していた狩野山楽に弟子入りさせる。その頃の彦三は、山楽が狩野永徳の門人となったと同じ年頃であり、おそらく山楽は自分の境遇に近い彦三に同情して、その内弟子にしたと思われる。弟子となった彦三は次第に頭角を表したらしく、那波活所に送った「西湖十景図扇面画」から、遅くとも元和5年(1619年)までには山楽の娘・竹の婿となり、名も平四郎と改め、狩野性を授けられた。山雪の号を名乗った時期は不明だが、遅くとも30代半ばには用いていたと推定される。また、縫之助とも称したことが知られている。
 正保4年(1647年)、九条幸家の命により、東福寺所蔵の明兆筆三十三身観音像の内、欠けていた2幅を補作、その功績により法橋に叙せられる。ところがその2年後、牢屋に捕えられ、更にその2年後におそらく獄中で没した。獄中から永納に宛てた手紙「山雪公密文」では自己の無実を訴えているが、なぜ山雪がこのような不幸に見舞われたか定かではない。
 山雪は孤独を好み、蔵書家で学者としての側面を持ち、絵画史研究を行った。山雪の子・狩野永納が著した『本朝画史』は日本絵画史の基本史料として知られるが、山雪の草稿を永納が完成させたものである。 

 狩野山雪の長子として京都に生まれ、幼少より父から狩野派の画法を学んだ。後に江戸の狩野派(江戸狩野)の宗家・中橋家当主の狩野安信についたという。
 慶安4年(1651年)3月12日、21歳の時に父が亡くなると、直ちに家督を継いで、父と同じ「縫殿助」を称すようになる。祖父・山楽や父・山雪の「山」字ではなく、狩野派にとって由緒ある「永」字を冠することで、家系と画系への帰属意識を標榜し、以後、京狩野は名前に「永」字を冠することになった。
 家督相続してからは九条幸家を頼り九条家の出入りを許され、活動は幸家の詞書による「新三十六歌仙図帖」の絵を担当したり、幸家の孫娘の夫・浅野綱晟や林鵞峰に九条家の家宝「中殿御会図」を模写して送ったことが挙げられる。
 禁裏御所障壁画制作に3度参加しており、承応2年(1653年)6月に禁裏が炎上してしまったため、翌年から明暦元年(1655年)にかけての再建工事では、狩野探幽,海北友雪,土佐光起らに混じり参加、「外様番所十二条敷」に「竹図」、「長橋上段之次」に「軍鳩図」を描いている。
 禁裏御所障壁画以外の作品として、寛文3年に「霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風」を描いた他、寛文6年(1666年)1月18日から4月10日までの約3ヶ月間で23件の仕事に取り組んだことが確認されている。寺社縁起絵巻も手掛け、「泣不動縁起絵巻」「海住山寺縁起絵巻」「穴太寺縁起絵巻」「有馬温泉寺縁起絵巻」「菅生宮縁起絵巻」「増賀上人行業記絵巻」を描いた。一方で和歌に熱中して頻繁に歌会に出席、山本春正,五十川梅庵らと交流を深め人脈形成に繋げていった。
 貞享元年(1684年)6月下旬頃、長子の永敬に家督を譲り剃髪する。元禄10年(1697年)死去、享年67。没後は泉涌寺裏山に山楽・山雪と共に葬られた。 

狩野永伯 狩野永岳

 父・狩野永敬から画を学ぶが、元禄15年(1702年)16歳でその父を亡くしてしまう。父の代からと関係があった二条家には、尾形光琳や山本素軒,片山尚景といったベテラン絵師たちも出入りしており、彼らに比べて若年の永伯は苦境にたたされたと推測される。しかし、宝暦5年(1708年)の御所障壁画制作では、京狩野家代々の禁裏御用での履歴を強調し、その筋目に当たる自分が参加できないと家筋が断絶してしまうと訴え、参加を認められた。以降、朝廷の仕事を請け負うようになったらしく、延享4年(1747年)、桃園天皇即位に伴う御用でも、土佐光芳,土佐光淳,鶴澤探鯨らと共に参加している。こうした朝廷との繋がりが他の京絵師たちとの差となり、京狩野家は別格の存在となっていったと推測される。住居は、御所南側よりの車屋町。78歳で没。墓所は泉涌寺。永伯には3人の娘がいたが男子に恵まれず、狩野永良を養子として跡を継がせた。
 後の天明の大火や美術史で等閑視されたためか、長寿の割に確認されている作品は少ない。『古今墨跡鑑定便覧』などの幕末の画人伝では、父の死後は狩野宗家の狩野主信(狩野安信の孫)に学ぶとされる。これを裏付ける史料は確認されておらず、京狩野家当主が十数才しか歳が離れていない狩野宗家当主に弟子入りするかやや疑問であるが、画風には江戸狩野様式が認められる。 

 京狩野家9代。桃山風の画風を基本に円山四条派や文人画、復古大和絵など様々な画風を取り入れ、低迷する京狩野家を再興した。永岳(永嶽)は諱。代々の通称、縫殿助を名乗った。
父は京狩野の絵師・影山洞玉(後の狩野永章)、弟は狩野永泰で、その子が冷泉為恭。早くに才能を見いだされ京狩野8代狩野永俊の養子となり、文化13年(1816年)永俊が没すると27歳で家督を継いだ。
 初代狩野山楽の末裔であることを誇りとし、箱書きや落款に「山楽九世孫」としたためている。山楽や2代・山雪の画を熱心に学び、桃山風の画風を基本とした。その上で、当時京都で人気を博していた四条派の画風を積極的にとり入れている。この他にも江戸中期に来日した沈南蘋の流れを汲む長崎派や、谷文晁によって広まった北宗画や文人画、宗達・光琳の装飾的な琳派、甥にあたる冷泉為恭から復古大和絵を直接学んだ。このように様々な画風を貪欲に吸収し自家薬籠中の物とした。
 京狩野家は代々九条家と関係が深く、永岳33歳の時、画を好む九条尚忠の家来となった。嘉永6年(1853年)、尚忠が左大臣の公務で江戸に下ったとき、これに同行し富士山を実見し「富士百幅」を描いている。
 永岳の代になって京狩野は紀州徳川家と彦根井伊家の御用絵師も務めるようになった。井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる井伊直弼の肖像画は永岳が画いたとされる。57歳にして禁裏御絵師御次席となる。
臨済宗妙心寺には永岳の作品が多く残り、とりわけ隣華院客殿障壁画は永岳の代表作といえる。同じく臨済宗大徳寺にも頂相など多数の作品が残されている。東本願寺にも大障壁画を手掛けたが、のちに焼失した。本願寺を通じて地方の別院にも永岳の作品が多数見られる。この他にも永岳は多くパトロンをもち、京都はいうに及ばず長浜や飛騨高山にも足を伸ばし、富商や富農の求めに応じて絵を画いた。禁裏の御用絵師とはいえ、永岳が家督を継いだ頃の京狩野派は、土佐派や鶴沢派の後塵を拝し不遇な立場にあった。なおかつ江戸後期には伝統的な画派は勢力を弱め、特色を持った新興の画派が台頭していた。永岳は生き残りを掛け京狩野の伝統を革新させ、特色を打ち出すことに成功する。長寿であったことも幸いして京都画壇では重鎮として扱われた。享年78。養子の永祥が10代を相続。門弟に長野祐親などがいる。