| F034:狩野正信 |
藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 二階堂行政 ― 二階堂行義 ― 狩野正信 ― 狩野州信 |
F035:狩野州信 |


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| 狩野州信(永徳) | 狩野光信 |
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天文12年(1543年)、松栄の長男として生まれる。10歳(数え年)の永徳は天文21年1月29日(1552年2月23日)に狩野法眼(元信に連れられて将軍・足利義輝に拝謁している。 |
山城国で生まれる。はじめ織田信長に仕え、父・永徳とともに安土城の障壁画などを描く。その後、豊臣秀吉に仕えた。天正18年(1590年)に父が没した後、山城国大原に知行100石を拝領、狩野派の指導者となる。天正20年(1592年)肥後国名護屋城を制作。その後も豊臣家の画用を務め多忙であった。慶長8年(1603年)、二条城に大内裏図を作成している。慶長11年(1606年)、江戸幕府の命で江戸へ下り、江戸城殿舎に障壁画を描く。しかし、慶長13年(1608年)、帰京途中で桑名で客死してしまう。享年44歳、または48歳。 |
| 狩野貞信 | 狩野安信 |
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京都出身。慶長13年(1608年)に父・光信が亡くなると、叔父・狩野孝信の後見で育つ。慶長19年(1614年)の名古屋城障壁画制作に参加。若年ながら狩野家嫡流という血統の高さゆえ、本丸御殿表書院上段之間という最も格式の高い部屋を担当したとする説が有力である。 |
探幽・尚信は兄。幼少期は父に頼まれた狩野興以に2人の兄と共に絵の教育を受けたという。元和9年(1623年)、危篤に陥った宗家当主の狩野貞信には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる狩野長信と狩野吉信の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として惣領家を嗣ぐことが決められた。伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。探幽のいじめを受ける中で画技の研鑽に努め、寛文2年(1662年)には法眼に叙された。また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられた狩野益信や甥の狩野常信に娘を嫁がせ、探幽に対抗しつつ狩野家の結束を固める策をとっている。延宝2年(1674年)の内裏造営では、筆頭絵師にのみ描くのを許された賢聖障子を描き、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。しかし、その4年後に息子の時信に先立たれてしまう。この頃から安信は、武者絵を描くためにわざわざ山鹿素行を訪れ、武者装束や武器などの有職故実の教えを受け、朝鮮進物屏風の制作にあたっても、素行を訪ね、様々な質問をしている。 |
| 狩野立信 | 狩野孝信 |
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江戸木挽町に生まれる。本名は立信、幼名は熊五郎、晴雲斎とも号した。狩野宗家中橋狩野家・狩野祐清邦信の養子となり、後に宗家中橋家第15代となった。嘉永元年(1848年)幕府御用絵師となり、安政4年(1857年)法眼に除す。徳川家斉から徳川家茂までの4代の将軍に仕え、江戸城の障壁画や屏風絵を多く手がけた。 |
京都出身。織田信長の家臣・佐々成政の娘を妻に迎えたと伝える。天正18年(1590年)20歳の時、父・永徳が亡くなると兄・光信を補佐したが、光信が慶長13年(1608年)に亡くなると、その遺児狩野貞信を当主に据えつつ事実上狩野派の中心となって活躍した。孝信は狩野派の支持層である武士階級のみならず、朝廷の後援を得て禁裏絵師となり、右近将監(従六位)に叙し絵所預に任じられた。慶長18年(1613年)の内裏造営では総帥として活躍し、この時描いた現存最古の「賢聖障子」等は現在仁和寺に伝わっており、孝信の基準作とされる。 |
| 狩野守信(探幽) | 狩野守道(探信) |
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慶長17年(1612年)、駿府で徳川家康に謁見し、元和3年(1617年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。江戸城,二条城,名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺,妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作した。山水,人物,花鳥など作域は幅広い。 |
江戸幕府御用絵師の鍛冶橋狩野家の7代目。先祖に当たる鍛冶橋狩野家2代目の狩野探信守政と区別するため、探信守道とも呼ばれる。 |
| 狩野益信 | 狩野尚信 |
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狩野探幽の養子で、江戸幕府御用絵師の中で奥絵師4家に次ぐ家格を持つ表絵師筆頭(御坊主格)駿河台狩野家の祖。狩野洞雲とも言われる。彫金家・後藤勘兵衛家の後藤立乗の長子として生まれる。幼少時に書を松花堂昭乗に学び、画を好んだ。その画技を見込まれて寛永12年(1635年)、11歳で探幽の養子となる。後藤家と狩野家とは共に幕府の御用を務め、日蓮宗信者といった共通点を持ち、狩野元信の代に遡ると言われるほど古くから繋がりがあったという。探幽の弟・狩野安信に可愛がられ、その娘を妻とし、3代将軍・徳川家光にも寵愛された。しかし探幽に実子・探信,探雪ができると、万治2年(1659年)の35歳の時に南光坊天海の紹介で別家し、寛文7年(1667年)に新たに駿河台に屋敷を拝領し、駿河台狩野家を興こす。天和2年(1682年)には新たに20人扶持を得て、他の表絵師の5人扶持(山下狩野家10人扶持を除く)より高い格式を得た。また同年、11歳の養子であり探幽の実子で勘当されていた五右衛門(勘当の理由は不明)の子狩野福信がお目見えしている。 |
京都に生まれる。元和元年(1623年)徳川家光上洛の際、17歳でお目見えし、家光から絵事を申しつけられた。兄・探幽に続き、寛永7年(1630年)江戸に召され、竹川町に屋敷を拝領し、幕府の御用絵師となる。探幽の画風を素早く習得し、二条城、聖衆来迎寺、知恩院障壁画の制作では兄と共に参加し、その画業を補佐した。その後、探幽の画風から一歩踏み出し、探幽以上に湿潤な墨調をもち、余白や構図にも探幽を超える大胆さをもつ作品が残っている。大和絵の白描技法を水墨画の人物描写に応用し、漢画の和様化に寄与した。近衛家熙は『槐記』のなかで、古今に超絶したものだと高く評価している。一方、金碧障壁画の着色作品は、対象を単純化しようとする傾向が見られ、探幽が金碧画の中にも和様化を目指したのに対し、尚信は装飾化へ向かおうとしたようである。 |
| 狩野常信 | 狩野典信 |
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京都出身。慶安3年(1650年)4月に父の尚信が没した後、15歳で木挽町狩野家を継いだ。同年12月剃髪、養朴と号し3代将軍・徳川家光にお目見え、後に徳川家綱の御用を勤めた。父の没後は伯父の狩野探幽に画を学んだとされる。古来より狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきたが、狩野派内での地位が上がるのは遅かった。これは叔父で妻の父でもある狩野安信に疎んじられたからだと言われる。これは、結婚・養子縁組で探幽・安信兄弟と繋がりができた狩野益信と立場を比較され、しばしば狩野派内部での序列が彼と入れ替わっているからとされる。益信と常信の画家の地位は状況により入れ替わっている。 |
江戸時代中期の竹川町家、後に木挽町家狩野派6代目の絵師である。号は栄川,栄川院,白玉斎。白玉斎の号は一羽の雀が典信の部屋に飛び込み、置いてあった白玉を硯の中に落として飛び去ったという逸話に由来するという。 |
| 狩野栄信 | 狩野養信 |
| 木挽町家狩野派8代目の絵師である。江戸に生まれる。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)に父・惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子・養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。しかし、画才には恵まれたらしく、現存する作品には秀作・力作が多い。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖・狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代の養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。 |
伊川院栄信の長男として江戸で生まれる。母は稲葉丹後守家来の松尾多宮直常の娘。15歳で初めて江戸城に出仕した。その前日から没する前日までの36年間にわたる『公用日記』56冊には、御用絵師の業務やそれ以外の日常を知ることが出来る。 |
| 狩野雅信 | 狩野岑信 |
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代々幕府の奥絵師を勤めた木挽町狩野家の10代目で、最後の当主。1844年(天保15年)、父と共に火災で消失した江戸城本丸御殿障壁画制作に従事した。翌1845年(弘化2年)法眼に叙せられ、1861年(文久元年)には法印に上った。14代将軍・徳川家茂の寵愛を受け、江戸北町奉行を務めた鍋島直孝の娘を娶り、1863年(文久3年)の家茂上洛にも付き従っている。しかし戊辰戦争時には、旧幕府軍から江戸脱走を勧誘されるも雅信はそれに応じず、その時の書状を焼き捨て新政府へ配慮している。 |
元禄元年(1698年)、後に6代将軍となる徳川家宣に召し出され、同3年(1700年)15人扶持が与えられる。宝暦元年(1704年)家宣の西の丸入場に従い、宝暦4年(1707年)11月29日松本性を賜って松本友盛と名を改めた。この時、家宣自ら松平姓を与えようとしたが、岑信が憚って辞退したため松本姓を与えたという。更に翌年、家宣の将軍宣下に伴い奥医師並、200俵7人扶持に加増、別家を許されて浜町狩野家を興し、更に狩野宗家の中橋狩野家を凌いで狩野総上席を与えられた。なお、御用絵師が奥医師並の職格を与えられたのは、住吉具慶と岑信のみである。しかし、家宣の将軍就任を見ずに宝永5年(1708年)12月3日、父・常信に先立って亡くなった。享年47。墓所は池上本門寺。家宣の御用を多く務めたと推測されるが、現在確認されている作品数は20点に満たない。弟子に伊予松山藩御用絵師の豊田随園など。 |
| 狩野友信 | 狩野松伯 |
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嘉永6年(1854年)3月、血縁上は従兄弟に当たる狩野勝川院雅信の絵所に入り、7年間修行する。同門に、狩野芳崖,橋本雅邦,結城正明らがいる。安政6年(1859年)12月から父の見習いとなり、将軍・家茂にお目見え、奥絵師に任ぜられ二人扶持となる。以後、しばしば幕府の絵画御用を務めた。 |
はじめ直木与市と名のり、雪川と号した。『若木集』に宗泉の父とある。 |
| 狩野延信(芳崖) | 狩野光頼(山楽) |
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近代日本画の父と称される画家のひとり。盟友たる橋本雅邦と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎,菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。 |
浅井長政の家臣・木村永光の子・光頼として近江国蒲生郡に生まれる。父・永光は余技として狩野元信に絵を習っていた。狩野一族ではないが、狩野永徳の門下に入り改姓、永徳亡き後は豊臣秀吉・秀頼父子の2代に渡り絵師として豊臣氏に仕えた。そうした経歴が災いして窮地に陥るも九条幸家らの助命嘆願で救われ、彼を中心とする関係者に作品を提供する一方で江戸幕府からの注文もこなし、障壁画・屏風に永徳風の作品を残した。江戸へ移った狩野派と疎遠になり、京都に留まった山楽の子孫は「京狩野」と称された。 |
| 狩野山雪 | 狩野永納 |
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九州肥前国に生まれる。実父は肥前国の千賀道元。母は松浦氏出身。父に従い大阪に移り住むが、慶長10年(1605年)に父と死に別れる。彦三(幼名)に画才があることを知っていたらしい叔父の僧は、当時、豊臣氏の絵師として活躍していた狩野山楽に弟子入りさせる。その頃の彦三は、山楽が狩野永徳の門人となったと同じ年頃であり、おそらく山楽は自分の境遇に近い彦三に同情して、その内弟子にしたと思われる。弟子となった彦三は次第に頭角を表したらしく、那波活所に送った「西湖十景図扇面画」から、遅くとも元和5年(1619年)までには山楽の娘・竹の婿となり、名も平四郎と改め、狩野性を授けられた。山雪の号を名乗った時期は不明だが、遅くとも30代半ばには用いていたと推定される。また、縫之助とも称したことが知られている。 |
狩野山雪の長子として京都に生まれ、幼少より父から狩野派の画法を学んだ。後に江戸の狩野派(江戸狩野)の宗家・中橋家当主の狩野安信についたという。 |
| 狩野永伯 | 狩野永岳 |
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父・狩野永敬から画を学ぶが、元禄15年(1702年)16歳でその父を亡くしてしまう。父の代からと関係があった二条家には、尾形光琳や山本素軒,片山尚景といったベテラン絵師たちも出入りしており、彼らに比べて若年の永伯は苦境にたたされたと推測される。しかし、宝暦5年(1708年)の御所障壁画制作では、京狩野家代々の禁裏御用での履歴を強調し、その筋目に当たる自分が参加できないと家筋が断絶してしまうと訴え、参加を認められた。以降、朝廷の仕事を請け負うようになったらしく、延享4年(1747年)、桃園天皇即位に伴う御用でも、土佐光芳,土佐光淳,鶴澤探鯨らと共に参加している。こうした朝廷との繋がりが他の京絵師たちとの差となり、京狩野家は別格の存在となっていったと推測される。住居は、御所南側よりの車屋町。78歳で没。墓所は泉涌寺。永伯には3人の娘がいたが男子に恵まれず、狩野永良を養子として跡を継がせた。 |
京狩野家9代。桃山風の画風を基本に円山四条派や文人画、復古大和絵など様々な画風を取り入れ、低迷する京狩野家を再興した。永岳(永嶽)は諱。代々の通称、縫殿助を名乗った。 |