清和源氏

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松井維義 松井宗信

 為義十四男とも云うが、その人物像は資料が乏しく、詳細は不明。惟義とも書く。通称を松井冠者と称したとされ、子孫にこれを起源とする源為義流松井氏がある。この松井氏は山城国出身とされ、同国葛野郡松井庄の出と云う。
 葛野郡松井庄は現在の京都市右京区西院松井町であると考えられる。為義の子供たちの多くは、保元・平治の乱に巻き込まれて命を落としたが、維義のように生存したものがあった。彼はこれらの戦乱のとき、幼児のため禍を免れたと推測される。
 また、西院松井町の域内にはかつて後院(天皇の隠居所)としての淳和院が存在し、淳和天皇の女院が隠棲の寺をその域内に建立してこれを松院と称したという。松院は後代松井寺と呼ばれ、この地の名称のもととなったとも云う。そして、淳和院は別当職を代々源氏長者(当時は村上源氏が世襲)がつとめ、源氏にゆかりの深い施設であるが維義との関係性は不詳。
 維義子孫の松井氏はこの後、山城国を中心に発展分岐し、室町期には松井康之(武将)・松井友閑(堺奉行)等を輩出した。系統としては、この康之の流れが室町幕府御家人として足利氏に仕え、のち和泉上守護家細川氏の細川藤孝(幽斎)に付属して肥後八代城主となる。また建武年間に足利尊氏に味方し、今川範国に属して山城国から遠江国に移住して二俣城主になる系統があり、この二俣城主の系統から更に分かれて三河国に移住、三河で吉良氏・松平氏に属して江戸時代に至り徳川譜代大名や旗本になるものなどがあった。

 宗信は今川義元に仕え、今川氏の領国拡大がはかられた時期でもあった。松井氏も義元に仕えて各地を転戦した。天文8年(1539)義元直々の書状で、その活躍ぶりを労われている。また、同年9月貞宗は新たに久津部郷を宛行われている。このころ宗信は駿府に赴き、近習・馬廻り衆として、義元の側近で仕えるようになった。
 永禄2年(1559)には、宗信は左衛門佐とよばれ、氏真から遠州における松井氏の知行分や代官職を安堵されている。また、このころ、家督は貞宗から宗信に譲られたようである。こうして、松井氏は今川氏の重臣として、義元,氏真の信頼を得ながらその地歩を固めっていった。ところが、永禄3年五月、桶狭間の合戦で義元とともに宗信は討死した。
 宗信は馬廻衆として義元の本陣にいたようで、その奮戦ぶりは「(前略)去る五月十九日、天沢寺殿尾州鳴海原の一戦において味方勝利を失うところ、父宗信敵を度々に及び追い払い、数十人手負い仕出だし、これに相与すといえども叶わず、同心・親類・被官数人、宗信一所に討死す。誠に後代の亀鏡、比類なきの事(後略)」と記した氏真の書状からもうかがわれる。
 このように、松井氏の当主宗信は討死した。しかし、その忠節を賞されて、松井嫡流の所領はそのまま宗信嫡子の宗恒に安堵された。

松井宗恒

松井康之

 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いにて今川義元と共に父・宗信も戦死。それに伴い同年12月、家督及び跡式を継ぐことを認める文書(判物)数通を今川氏真より受給、父の遺領相続と松井衆の寄子の承継を認められている。また、これらによれば父・宗信は戦死時に左衛門佐と称し、宗恒は八郎と称した。さらに、父より引き継いだ寄子の武士は57名であったという。ただし、宗信戦死後は同族の松井宗親や松井助近が宗恒より以前に二俣城主に就任したとの諸説が存在する。
 その後、居城の二俣城は永禄11年(1568年)12月、徳川家康の進攻を受け、松井衆は松井和泉守某・松井八郎三郎某などが今川氏真の信頼篤い城将・鵜殿三郎(鵜殿氏長)と共に降参し徳川氏に服属。しかし宗恒はこの時の動向は不明ながら、後には武田方に投じたとされ、元亀3年(1572年)には、武田氏より2千貫文の知行を宛われた。同年12月には甲斐国の武田信玄の攻撃で二俣城が再度落城している。宗恒一党はその後の武田氏滅亡に運命を共にしたとされる。

 康之は当初は第13代将軍・足利義輝の家臣として仕えたが、永禄8年(1565年)、永禄の変で義輝と兄・勝之が松永久秀らによって暗殺されると、細川藤孝と行動を共にし、後に織田信長の家臣となった。だが、実際には細川藤孝の家臣のようなものであったと言われている。天正9年(1581年)、羽柴秀吉が鳥取城攻めを行なった時には水軍衆を率いて秀吉方の付城に兵糧を入れ、鳥取城に兵糧を入れようとしていた毛利水軍を撃退、毛利の将・鹿足元忠を討ち、その勢いで伯耆・泊城を攻めるなど活躍。信長から賞賛されたという。
 天正10年(1582年)の本能寺の変後、藤孝が出家すると子の忠興に仕えた。天正13年(1585年)の佐々成政征伐(富山の役)でも水軍衆を率いて活躍したという。以後も忠興と共に小田原征伐や朝鮮出兵に参加している。朝鮮出兵においては長男興之が戦死した。
 戦国時代に細川家は丹後の領主となり、康之は丹後松倉城(久美浜城)を任せられた。松井一族の働きぶりをみた豊臣秀吉は、康之を石見半国18万石の大名にとりたてると申し出たが、康之はこのまま細川家に仕えることを希望して辞退した。しかし事件が起こった。細川家が秀吉から関白秀次の謀反連座の疑いをかけられたのである。秀次からの借銀の返済や、秀次縁者に嫁していた忠興の娘御長差出要求に対して康之が奔走し、事なきを得た。これに感謝して、忠興は娘こほ(11歳)を康之の次男新太郎(後の興長)の妻とした。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは忠興と共に東軍に与する。当時は忠興の飛び領であった豊後杵築城に城代有吉立行と共にいた。康之は丹後へ戻るよう忠興より命を受けたが、既に戻れる状況下になかったため、杵築に留まる。そして杵築城を攻めてきた大友吉統の攻撃を防ぎきり、救援に来た黒田如水と合流、石垣原の戦いで勝利した。この功績により戦後、忠興より2万6000石の知行と、速見郡の御領所1万7000石を預けられた。慶長17年(1612年)に死去。享年63。家督は興長が継いだ。
戦国武将としてだけではなく、千利休や津田宗及と並ぶ茶人でもあったと言われている。子孫は代々徳川家直参の身分を持ち、熊本藩の2万8000石の筆頭家老(別格家老家)であり、さらに代々肥後八代城主に封じられた(一国一城制の例外)。

松井興長

松井友閑

 松井佐渡こと松井興長は天正10年(1582年)に丹後国久美浜で康之の二男として生まれたが、兄興之が朝鮮出兵で戦死したため松井家の世子となり、慶長16年(1611年)、父・康之が隠居したのに伴い松井家の家督を相続した。関ヶ原当時に細川家世子であった細川忠隆からの松井興長あての自筆書状5通が松井文庫に現存している。
 寛永9年(1632年)、細川家が豊前・豊後から肥後熊本藩に国替になると、興長には玉名・合志郡の内に3万石が細川家から与えられた。
 寛永14年(1637年)に島原の乱が起こると、藩主細川忠利の命により派兵の手配、幕府や他藩との交渉に奔走し、翌年の原城の戦いでは、自ら3,700余りの兵を率いて出陣した。
 正保2年(1645年)に八代城主だった細川忠興が亡くなると、正保3年(1646年)から興長が八代城を預かることになった。八代城は一国一城令の例外とされて存続し、代々松井家が八代城主を務めた。
 興長は、忠興の六男(細川寄之)を養嗣子に迎え、細川別姓である長岡姓を賜り、長岡佐渡守と称した。興長は慶長5年(1600)の19歳での初陣以来80歳で亡くなるまで細川忠興,忠利,光尚,綱利の4代の主君に仕え、細川家を支えた。晩年には、浪費癖のあった若年藩主綱利を諫める書状を、松井家存続をかけて提出している。
 松井家は細川血族として代々筆頭家老を勤め、明治まで続く。松井家は細川家臣でありながら徳川直参でもあり、実質上の肥後八代支藩3万石の大名格藩主であったといえる。
 熊本県八代市の八代市立博物館や松井文庫、松井家御茶屋だった松濱軒には、第二次世界大戦の空襲を免れた多くの松井家歴代の史料や美術品が残されており、研究が進められている。

 松井氏は友閑の祖父の松井宗富(信濃守)が8代将軍足利義政に仕えて以来、代々室町幕府の幕臣として仕えていた。友閑は当初は12代将軍足利義晴,義輝父子の家臣として仕えたが、永禄8年(1565年)、永禄の変で義輝が松永久秀らによって暗殺されると、後に織田信長の家臣となった。
 永禄11年(1568年)の織田信長入京後には京畿の政務にあたり、織田家の右筆に任じられている。京都や堺の豪商らに接触して名物の茶器などを供出させた。天正6年(1574年)3月24日、相国寺で開かれた信長の茶会では茶頭を勤めた。同年、東大寺正倉院の名香蘭奢待を拝受した時には奉行を務めた。天正3年(1575年)には堺の代官に任じられた。信長主催の茶会では茶頭を務めている。
 この頃になると堺の豪商・津田宗及とも親交を深めた。後にも信長が開く茶会には度々茶頭として呼ばれることが多く、茶道に対する造詣が深かった人物と思われる。7月3日、宮内卿法印の官位を授かった。村井貞勝,武井夕庵と並んで、信長の吏僚の中でも最高の地位にいた。
 織田家では主に財務などを担当したが、外交能力にも長け、上杉謙信宛の信長書状に副状を発したり、三好康長の投降交渉(高屋城の戦い)、本願寺との和睦工作、謀反を起こした荒木村重や松永久秀の説得交渉、後期には伊達輝宗や大友宗麟ら遠方の大名との外交交渉にも奔走している。本能寺の変当時は堺で徳川家康を茶会も催して歓待中であり、変を知ると上洛を目指したが、途中で断念し、堺の町衆に変の勃発と信長の死を報じた。変後は豊臣秀吉に接近し、堺の代官として以後も活躍する。しかし天正14年(1586年)に突然不正を理由に罷免され、その後の消息は不明である。
 目利きで知られ、鳥丸家,松江宗訥とともに天下三墨蹟の一つとされた無準の墨蹟を所持した。武野紹鷗より「相阿弥茶湯書」を伝えられている。戦国武将だけではなく、茶人、文化人でもあったと言われている。

 

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