■西上作戦に至る背景
■西上作戦に向けた外交戦略
■一言坂の戦いと二俣城の戦い
■武田軍の南進ルート
■前哨戦の詳細
■三方ヶ原の戦い
■主な参戦武将
■両軍の陣形について
■戦後の逸話あれこれ
■信玄の死
■武田軍の西進ルート
■駿河進軍ルート説
信玄本隊は、信濃から既に侵攻支配完了している駿河に入り、駿河湾沿い~牧之原台地を抜け、遠州へ西進したとする説である。大軍にとっては平坦で短距離でもあり(事前にルートを整備)、理に適ったルートである。また、諸書に10月21日に信玄本隊が高天神表を通過したとの記事もあり、近年は駿河進軍ルートが有力視されつつある。なお、山県別動隊は、青崩峠南下ルートをとっている。
■遠州大念仏
大念仏は、三方ヶ原の戦いおよび犀ヶ崖の戦いで犠牲となった人を弔うために始まった。戦死した武田勢兵士の怨念がもたらしたとされる夜な夜な響き渡る呻き声や叫び声の他、疫病の発生やイナゴ等の病害虫の大量発生といった災害が発生し、その武田勢の鎮魂のために徳川家康に迎え入られた宗円僧侶のもと、行われる行事になった。以前から伝承されていた雨乞いや虫送りの習俗が融合しているといわれている。江戸時代には遠州各地で大念仏が広まった。ときには組間での争いも起きるようになり、禁止令や取締令が出されることもあった。大念仏は、統率責任者の頭先(かしらさき)の提灯を先頭にして、笛・太鼓・鉦・歌い手など、おおよそ30人を越す団体となる。
【掲載者プロフィール】
1954(昭和29)年生まれの浜松育ち。徳川家康の浜松城内にある小中学校、三方ヶ原合戦犀ヶ崖近くの高校出身。現在は名古屋市在住の歴史好き,史跡好きなオジサンです。関連史跡サイト:史跡探訪〔史跡トリップ〕