小牧長久手の戦い

1.小牧長久手の戦いの背景

   ■羽柴秀吉と織田信雄の対立

2.小牧における緒戦

   ■羽黒の戦い

 

3.秀吉の出陣と膠着状態

   ■羽柴秀吉の出陣

  ■「三河中入」作戦による膠着打破

4.三河中入

   ■岩崎城の戦い

 

  ■白山林の戦い

 

  ■桧ヶ根の戦い

  ■仏ヶ根の決戦

 

  ■羽柴軍の三河中入と徳川軍の追撃(概要図)

5.長久手決戦後の戦いと講和

   ■長久手決戦後の主な戦い
    織田・徳川方と羽柴方の戦いは全国各地で勃発した

時期 戦い 内  容
尾張 6~7月 蟹江城の戦い

滝川一益が九鬼嘉隆の安宅船と共に、信雄の長島城と家康の清州城との中間にあった蟹江城,下市場城,前田城を海上機動にて落城させると、織田信雄・徳川家康は即日反応し、7月3日には全て落城せしめ、一益は船で伊勢に逃れた。

5~8月 竹ヶ鼻城の戦い

羽柴勢は5月4日から尾張の加賀野井城,奥城,竹ヶ鼻城を囲み、水攻めなどで順次攻略したが、信雄・家康は後詰要請に答えず、開城するように勧告し、6月10日に開城した。

8月 楽田城・岩倉城の戦い

8月16日に秀吉は大坂城から再び楽田城に入る。8月28日には家康も岩倉城に入り、双方、楽田と岩倉において対陣したが、小競り合いに終わった。

美濃 4月17日 明知城の戦い

森長可の死後に手薄となった東濃では、三河から徳川勢が侵攻し、4月17日には徳川家に居た遠山利景が旧領であった明知城を奪還した。

伊勢 9月15日 戸木城の戦い

9月15日、戸木城に篭っていた織田方の木造具政らが羽柴方の蒲生氏郷らによって攻められた。城は増強修復され、木造家一族は将兵数百人とともに約6ヶ月に及び籠城したが、信雄と秀吉の和睦が成立したことで、城を明け渡して田辺城に移った。

能登 9月9日 末森城の戦い

家康に呼応した佐々成政が能登国の末森城を約1万の兵で総攻撃し落城寸前にまで至らしめたが、前田利家の反撃に遭い退却した。

和泉

3月
(秀吉出陣中)

岸和田城
の戦い

3月から根来,雑賀衆及び粉河寺衆徒が秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め寄せ、岸和田城にも攻め寄せたが、中村一氏と松浦宗清が戦いの末にこれを守りきっている(紀州征伐)。この和泉の攻防により、秀吉は6月21日~7月18日、7月29日~8月15日、10月6日~10月25日と戦場を離れ大坂城に帰還している。

北関東 5月初~8月 沼尻の合戦

5月初旬から8月にかけて、北条氏直率いる北条軍と、佐竹義重,宇都宮国綱,佐野宗綱,由良国繁,長尾顕長らの間で合戦が起きた(沼尻の合戦)。 佐竹義重・宇都宮国綱は秀吉と頻繁に連絡を取り合い、上杉景勝は秀吉の命により信濃出兵をし、北条氏を牽制している。一方、北条氏は先年の家康との講和を発展させ、対秀吉の攻守同盟を結んでいた形跡があり、北条氏は本合戦の直後に小牧・長久手の戦いに参陣しようとした動きがある。

四国 6月 十河城の戦い

6月11日に長宗我部元親が十河存保の十河城を落し、讃岐平定を成し遂げている(第二次十河城の戦い)。家康は元親に「3カ国を与えることを約束した上で渡海して摂津か播磨を攻撃してほしい」と求め、秀吉も元親の動きを恐れて小牧在陣中に大坂に帰ったりしている。

  ■講和

7. 小牧長久手の戦いの意義

8.小牧長久手古戦場史跡一覧

         【城砦】

織田・徳川連合軍側 羽柴軍側
小牧山城跡 羽黒城跡
小幡城跡 楽田城跡
蟹清水砦跡 上条城跡
北外山砦跡 久保山砦跡
宇田津砦跡 岩崎山砦跡
田楽砦跡 小松寺砦跡
岩崎城跡 田中砦跡
長久手城跡 二重掘砦跡
青塚砦跡

        【交戦場】

八幡林合戦地跡
白山林合戦地跡
桧ヶ根合戦地跡
仏ヶ根決戦地跡
色金山(織田・徳川軍本陣跡) 野呂塚(野呂宗長,宗政父子顕彰塚)
御旗山(織田・徳川軍前線陣跡) 木下勘解由塚
伴盛兼墓碑 堀秀政本陣地跡
勝入塚(池田恒興の討死地)
庄九郎塚(池田之助の討死地)
武蔵塚(森長可の討死地)

        【その他】

血の池鎧掛の松
首塚耳塚
教圓寺(家康戦勝祈願寺)・常照寺(三将の墓所)
蟹江城・下市場城・前田城加賀野井城奥城竹ヶ鼻城岩倉城明知城戸木城・末森城(能登)・岸和田城・十河城

 
【掲載者プロフィール】

 1954(昭和29)年生まれの浜松育ち。徳川家康の浜松城内にある小中学校、三方ヶ原合戦犀ヶ崖近くの高校出身。現在は名古屋市在住の歴史好き,史跡好きなオジサンです。関連史跡サイト:史跡探訪〔史跡トリップ〕

 また、前九年後三年の役,桶狭間の戦い,姉川の戦い三方ヶ原の戦い長篠設楽原の戦いのサイトもぜひご覧ください。