G201:源頼信源経基 ― 源頼信 ― 源義親G301:源義親リンクG302・G303・G304・G305源 義親 前九年の役,後三年の役で活躍し「天下第一の武勇の士」と尊崇を集めた父譲りのつわもので、悪対馬守(悪対馬守義親)と呼ばれた。従五位下に叙せられ左兵衛尉、ついで対馬守に任じられるが、九州を横行して人民を殺害し略奪を働いた。康和3年(1101年)に大宰大弐・大江匡房から訴えがあったため、朝...

G301:源 義親源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義親 ― 源 義信G302: 源 義信●リンク源 義信源 義実(延朗) 源義親の長子として生まれるが、義親が西国で乱行を起こしたため、家督は異母弟の為義が叔父の義忠の養子となって継承した。義親の正室は肥後守・高階基実の娘であるが、義父の基実は義親の乱行により肥後守を罷免され、贖銅の刑を科された。武士として目立った活動は見られないが、官途は為義より高...

G301:源義親源経基 ― 源頼信 ― 源義親 ― 塩谷頼純G305: 塩谷頼純リンクG306塩谷頼純塩谷惟純塩谷朝義 喜連川塩谷系譜によれば、天仁元年(1108年)正月に父・義親が討たれた後に、摂津国堀江で生まれたとされる。生後は、父・義親の遺領である摂津国堀江荘に住したが、喜連川塩谷系譜によれば、生後まもなく流罪により、塩谷の地に下ったとされる。矢板市史では、大治5年(1130年)頃に塩谷に下...

G305: 塩谷頼純源経基 ― 源頼信 ― 源義親 ― 塩谷頼純 ― 塩谷孝綱G306: 塩谷孝綱●リンク塩谷孝綱塩谷由綱(義孝)塩谷義通 宇都宮正綱の四男として生まれ、塩谷隆綱の養子となり、延徳元年(1489年)12月28日、隆綱の死とともに塩谷氏の家督を継ぐ。塩谷家と宇都宮家は断絶していたが、この養子縁組は両家の和睦のために行われた意味合いが大きい。 永正6年(1509年)、那須資房が、塩谷家...

G201:源 頼信源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国G311:源 義国リンク312・G331・G365・G371・G372・G376・G384源 義国足利義康矢田義清 源頼信-頼義-義家と伝領した摂関家領上野国八幡荘を相続した。長兄義宗が早世し、次兄義親が西国で反乱を起こすと、三兄の義忠とともに次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。しかし、乱暴狼藉を行ったことや時代の趨勢に合わないと義家に判断...

G311:源 義国源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 新田義重G312:新田義重リンクG313・G316・G324・G329新田義重額戸経義 義重は源頼信-頼義-義家-義国と伝領した河内源氏の拠点である摂関家領上野八幡荘を継承し、また義国と共に新たに上野新田郡の開拓事業に乗り出す。その過程で源氏一族の源義賢、武蔵国の秩父氏、下野の藤姓足利氏といった諸勢力とは緊張関係に陥るが、一方南関東の支配...

G312:新田義重源経基 ― 源頼信 ― 源義国 ― 新田義重 ― 山名義範G313:山名義範リンクG314山名義範 新田義重の庶子。異説では父が足利義清で生母が義重の娘との説もある。上野国多胡郡(八幡荘)山名郷を与えられ、山名氏を称した。1175年-1177年ごろには豊前国の宇佐八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建立している。他の兄弟と比べて新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続し...

G312:新田義重源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 新田義重 ― 得川義季G329:得川義季リンクMT01世田良頼氏世田良満義世田良政義 父から上野国新田郡(新田荘)世良田郷を譲られて世良田弥四郎と称し、世良田氏の祖となった。義季・頼氏父子は世良田郷近辺の所領の開発を進め、富を蓄えて新田氏一族中の実力者となっていたらしい。 1244年、新田義重の曾孫で新田氏本宗家の惣領、新田政義が京都大番...

G336:斯波家氏源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 斯波家氏 ― 柴田義勝G342:柴田義勝●リンク柴田勝義柴田勝家 織田氏の重臣となった柴田勝家の父親だとの言い伝えはあるが確実な史料はなく、勝家はおそらく土豪階層の家の出身であると推定され、後に付会された伝承とみられる。 義勝の系譜については甚だ疑わしいとされる。勝家は若くして、家老として尾張の織田信秀・信長親子に仕えた。天...

G201:源 頼信源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義忠G391:源 義忠●リンク源 義忠稲沢盛経 源義家の3男として香呂峰の館で誕生。河内源氏の棟梁の中で河内守に任官した最後で、以降の棟梁は河内守にはなっていない。 嘉承元年(1106年)に父が死去すると、河内源氏はその勢力を縮小せざるを得ず衰退期を迎えた。 義忠は若年ながら河内源氏の屋台骨を支えるべく、僧兵の京への乱入を防ぐなど活動する。また、新...

G201:源 頼信源 経基 ― 源 頼信 ― 石川義時G392:石川義時リンクG393石川義時石川義基 義時は、父の義家以来の河内源氏本拠地の石川荘を相続した。また、治承の源平の戦いの際は、都に近い河内国に八幡太郎義家以来の源氏の残存勢力のあることを危険視した平清盛によって攻撃を受けた。派遣された平家方の侍大将大夫判官源季貞,摂津判官平盛澄の軍と源義基,源義兼らは洛外や石川源氏の本拠地である河内国...

G392:石川義時源 経基 ― 源 頼信 ― 石川義時 ― 石川清兼G393:石川清兼リンクG394石川清兼石川家成 松平清康に仕え、その死後は広忠に近侍した。天文11年12月(1543年1月)徳川家康誕生の際には「蟇目の役」を務めたとされる。同18年の天野孫七郎宛知行書、24年の大工跡職安堵状、弘治3年(1557年)の浄妙寺宛て道場安堵書などから、この間松平家の重臣として、西三河における政務を取...

G331:足利義氏源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 吉良義継G356:吉良義継●リンク吉良義継吉良貞家 足利義氏の3男または4男。名乗りからみると4男である説がある。一方、室町時代後期に編纂されたとされる『見聞諸家紋』という書物には「義氏之次男義継号東条、三男長氏号西条」とあり、また吉良氏が惣領の庶兄であることから御一家に加えられた経緯からして泰氏,長氏の兄であるとする説があ...

G331:足利義氏源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 吉良長氏G357:吉良長氏リンクG358・G359・G360吉良長氏吉良満氏 母が側室であったため、長男でありながら足利家の家督を継ぐことができなかったという。この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが足利宗家継承権を持つことになる。 『吾妻鏡』には安貞2年(1228年)7月23日に4代将軍・藤原...

G357:吉良長氏源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 吉良長氏 ― 吉良義安G358:吉良義安●リンク吉良義安吉良義弥 天文5年(1536年)、西条城主吉良義堯の次男として生まれる。はじめ西条吉良氏の家督は兄の吉良義郷が継ぎ、次男の義安は東条城主(東条吉良氏)吉良持広の養子に入った。しかし兄義郷がまもなく死去したため、西条吉良氏に戻って兄の跡を継いだ。ところが、東条の吉良持広も...

G311:源 義国源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 細川義季G376:細川義季リンクG377・G381細川義季細川義俊 足利氏3代当主・義氏が三河国の守護になると、兄の仁木実国らと三河額田郡細川郷に住み、細川次郎と名乗った。彼の子孫が室町幕府の三管領の一で、江戸時代に熊本藩の祖となった細川氏であるが、当時は三河の御家人の一人にすぎなかった。 子には系図上義俊他数名が確認されるが、実子は義俊...

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