G532:井上光純 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 井上頼季 ― 井上光純 ― 井上光兼 | G533:井上光兼 | ● |
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井上光兼 | 井上元兼 |
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光兼の祖父・光教が毛利豊元の妹と婚姻して以降、毛利氏と密接な関係を持つようになり、光兼も毛利氏当主に代々仕えた。 |
もとは毛利氏と対等関係にある国人であったが、毛利氏との縁戚関係を経て一門の多くが毛利弘元の家臣団に組み込まれ、弘元に知行を給されて、家中においては近習同様に仕えることとなった。 |
井上就兼 | 井上就澄 |
毛利氏において重要な位置を占める一族となったが、権勢を増すにつれ、就兼の父・元兼をはじめとして毛利興元の死後30余年に渡って傍若無人な振舞いも顕著になった。 |
毛利氏において重要な位置を占める一族となったが、権勢を増すにつれ、毛利興元の死後30余年に渡って傍若無人な振る舞いが顕著となり、元就は安芸井上氏の粛清の機をねらった。 |
井上元光 | 井上元義 |
永正14年(1517年)10月22日の有田中井手の戦いでは元光も毛利元就に従って出陣。山下小溝において槍働きによって前原某と山縣備中守を討ち取る武功を挙げ、毛利幸松丸と毛利元就の二人からそれぞれ感状を与えられた。 |
天文19年(1550年)、伯父の井上元兼をはじめとした安芸井上氏の一族30余名が、毛利元就の命で誅殺されたが、父・元光は元就の妹婿であったこともあって粛清を免れ、同年8月1日に安芸井上氏の本家を相続した。 |
井上元貞 | 井上就貞 |
井上勝光の子で井上光兼の弟であるとする説と、井上光兼の子で井上元兼の弟であるとする説の2説がある。 |
毛利元就に仕え、合戦でたびたび武功を挙げて感状を与えられた。また、山口町奉行に任じられている。 |